最高のフルートは誰の手に

 録画してあったビデオを、きのう観た。
 「最高のフルートは誰の手に」は、NHK で放送している「ハーバード白熱教室」の第9回 Lecture 18 のタイトルだ。

 講義の中でサンデル教授は「最高のフルートはフルートは誰の手に渡るのが正義か。アリストテレスなら『最上に演奏できる者に渡すべきだ』というだろう。そしてアリストテレスの根拠は『それがフルートが作られた目的だから』だ」という主旨のことを述べた。そして「この根拠には奇妙だが直感的な説得力があると言えないだろうか」と問いかけた。類似の例として、ハーバード大学の学内のテニスやスカッシュのコートを誰に優先的に使わせるべきかという問いを挙げた。それについても同様に、教授たちやより高額な支払いをする者たちよりも、テニスやスカッシュの選手たちに優先的に使わせるのが正義だろうとサンデルは述べた。

 たしかに他の条件が同じなら、より上手に演奏できる者に渡すほうがいいかもしれない。だが条件は他にも必要だと思うのだ。

 最高の演奏が「できる」というのと「する」というのは違う。そして最高の演奏を「する」というのと最高の演奏が「聴ける」というのもまた違う。それが理由だ。

 たとえば、この上なく素晴らしい演奏の技量を持つ人がいたとしよう。その人が演奏の意思を持たず、一切そのフルートで演奏をしなくても、それでもその人に最高のフルートを渡すべきだろうか。その人が一度もそのフルートを演奏せずに破壊しようとしてもそのままにさせるべきだろうか。もしその人が演奏をするにしても、たったひとりで、誰にも聴かせることなく、録音さえも許さず、自分自身のためだけにしか演奏しないとしたらどうだろうか。それでも最高のフルートをその人に渡すのが正義だろうか。

 またもしあるフルート職人が技術的にも経済的にも誰にも頼らず、独力で最高のフルートを製作したとして、それを彼が選んだ誰かに提供できるのだとしたらどうだろう。その場合、その職人が最高のフルート奏者にそのフルートを渡さなかったとしたら、彼は不正義を働いたことになるのだろうか。職人が最高の演奏ができる者に渡す可能性が高いとは言えるかもしれないが、必ずしもそうするとは限らないのではないか。フルート職人は実際に演奏してみせてもらうことでそのフルートが実際に最高のフルートであることを証明することは望むかもしれない。しかし、それは製品の試験としての必要からでしかないかもしれない。試験演奏の後、誰に渡すかは別の問題だ。最上のフルート奏者ではなく、最も高額の支払いを申し出た者に渡すことを決めるかもしれない。あるいは誰にも渡さないと決めるかもしれない。人類全体で最上の演奏をする者に渡すのではなく、その職人が属するある狭い範囲の社会(家族とか親戚とか地域とか国とか)の中での最上のフルート奏者に渡すかもしれない。それは不正義だろうか。

 こうしたことから、「最高のフルートが最上のフルート奏者に渡ることが正義となる」ためには条件があると私は考える。その条件は「フルート製作者とフルート奏者をともに含む少なくとも最小の社会において最高の演奏が享受されるような組み合わせが実現される場合」だろう。少なくとも最小の社会とは、例えばフルート製作者とフルート奏者が家族なら家族内、同国人ならその国内という意味だ。人類全体(あるいはフルート演奏が人類以外にも可能ならそれらを含めた全社会)としておけば最高の正義が実現されたと言えるかもしれない。

 ハーバードの学内のテニスコートの例なら、そのコートを最もテニスの上手な者に優先的に使わせるのが正義なのではなく、ハーバードのテニス選手のうち、そのコートを(ハーバードのテニスにおける名声を挙げる上で)最も効果的に使うことのできる選手に使わせるのが正義なのではないか。テニスの最も上手な選手は、たとえ学内のコートの優先使用権を得たとしても、あえて学外のもっと設備の整ったコートを使うかもしれない。だからこれは、かならずしもハーバードで最もテニスのうまい選手にそのコートの優先的な使用権を与えるのが正義だとは言えないという意味でもある。

 結局、正義とは、私的な個人間で個別に定義されるものではなく、彼らを含む社会全体が、最高のパフォーマンスを実現できるような仕方のことなのではないだろうか。