マイケル・サンデル著「これからの『正義』の話をしよう いまを生き延びるための哲学」

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

 この本は、弟から誕生日のお祝いにもらって読んだ。
 NHKで放送していた「ハーバード白熱教室」の講義をもとに書かれた本なので、だいたいの話の流れはあの講義をなぞっている。しかしこれは講義ではなくて本なので、聴講している学生たちとのやりとりはなく、サンデルの主張と彼の紹介する意見を追いかけることになる。講義のほうが刺激的だ。意見を口にする相手にそのたびに向きなおる必要があるからだ。そのたびに自分の姿勢を正しなおすことになる。しかし、本には本のよさもある。本の中の主張は長い。その長い主張の流れに自分の座る小舟を浮かべ、ゆらゆらと流されながら、まわりの景色を眺め、あたりの音に耳をかたむけ、ときおり感じる匂いに鼻をひくつかせたりする。
 講義にしても、読書にしても、残念なのは、そこで見聞した内容に疑問や意見があっても、それを相手には返せないことだ。相手に返すかわりにできることは、自分自身や、聞いた相手ではない相手に向かって自分の疑問や意見を話すことだ。この本を読んでいるときにも、思ったことがいくつもあった。

徴兵制と志願兵制

「兵役は一種の公共サービスだという一節があった。たしかに兵役とは自分を一種の公共サービスに提供することだ。しかし、だとしたら、兵役以外の役務は徴収されないのに兵役だけが徴収されるのはおかしいんじゃないか。」
「徴兵されることと陪審員に選ばれることを比較する一節があった。しかし、この比較は不当だ。兵士は戦闘の専門家であるべきだが、陪審員はむしろ法律の非専門家であることが必要なのではないか。陪審員は国民の全体をできるだけ忠実に抜き出したサンプルであるべきだろう。陪審員と兵役は、同じように国民の義務とされるにしても、同じ範疇の義務ではない。だから比較は成り立たないのではないか。」

妊娠中絶

「妊娠中絶の賛否には道徳的な立ち位置を明確にすることが必然となる、という一節があった。中絶に反対する場合は、受精した瞬間からそれは人間なのだから中絶は殺人と同じ道徳的意味があるといい、中絶に賛成する場合は、受精しただけではまだ人間とは言えないのだから中絶には殺人と同じ道徳的意味はないというのだ。しかし、そもそも妊娠中絶が望まれるのはどういう場合なのか。強姦など望まない理由での妊娠。子宮外妊娠などの母体に危険な妊娠。いずれにせよ、胎児をとるか、母親をとるか、の二択を迫られる場合に妊娠中絶がその手段として選ばれるのであれば、胎児も母親も両方を選べれば問題はなくなるはずではないか。そうだとすれば、技術的な解決も可能なのではないか。受精卵や胎児を当の母親の体外で育てることが可能になればいいのではないか。別の女性に移植するとか、人工的な子宮で育てるとかができるようになれば道徳的な二者択一の問題にはならないだろう。」

自己所有権

「『働いて得た所得に対する課税は強制労働と同じである』というノージックの見解が引かれている一節があった。同じではないだろう。働くことそれ自体に楽しみや喜びが伴う場合がある。その場合には、働いて得た所得が仮にすべて課税されて手元には残らないとしても、強制労働と同じとは言えない。労働体験が楽しみでもある場合には、どんなことをして働くか、何のために働くのかを当人の意思に反して強制しているとは言えないではないか。だから課税はつねに自己所有権を侵害するとは言えないだろう。仕事がおもしろいと感じる人への報酬は、生活に不自由をきたさない程度を保証した上でなら、当人限りで交換価値のない名誉ポイントのようなものでもいいのではないか。かならずしも金銭的な報酬である必要はなさそうだ。」
自己所有権を侵すからという理由で、ある殺人は別の殺人よりもより正義にかなうというような議論を紹介する一節があった。そうだろうか。自己所有権という考え方を持ち出す必要はないのではないか。最も深刻な被害をこうむる者が受認できるかどうかが正義の限界を決めるというだけのことではないのだろうか。」

結婚という社会制度

同性婚の道徳的問題を論じるなかで、婚姻を公的に認める制度は社会的承認を与えているから名誉の問題だ、という一節があった。たしかに異性婚であっても、子供を生み育てる意図や機能がかならずしも求められてはいない。そうであれば、同性どうしで婚姻したければしてもよさそうだ。それを言うならたしかに一夫一婦である必要さえないのかもしれない。共同生活を営むことを公的に賞賛し特別な価値を認めるのなら、子育てチームという法人格を与えるようにするという方法だって取れそうだ。『第一種子育て法人 磯野家』とか。」

快楽の質

「『最大多数の最大幸福』をうたう功利主義の問題は、効用という名前の快楽の量だけを問題にして快楽の質を無視してしまうことだ、という一節があった。例として、ホームコメディ『シンプソンズ』とシェークスピアの悲劇『ハムレット』のどちらが快楽が大きいか、どちらが快楽の質が上か、というのがあった。快楽の質とはなんだろうか。解釈の複雑さや解釈に必要とされる能力の高度さをもって快楽の質の高低を測ればいいのかもしれない。高度な解釈能力が必要な存在は、それだけ希少な存在でもあると仮定してもいいのなら。そもそも快楽とは具体的で客観的な実体なのか? 『シンプソンズ』や『ハムレット』そのものが『快楽』なのか? そうではないだろう。快楽は『シンプソンズ』や『ハムレット』といった快楽の源泉をある特定の個人に与えたときにその個人の上に現れるものだ。個人がちがえば得られる快楽も違う。快楽とは相互作用であり、一種の関数だ。少なくとも『シンプソンズ』や『ハムレット』に固有の絶対的な快楽の量なんていうものはないだろう。」

物語的解釈

「人間は物語的解釈のうえで生きるものだ、という一節があった。自分を定義しようと思ったら、自分がどんな家庭に生まれ、どんな民族、どんな国家に生まれ生きているのかを語る必要があるというものだ。人間の義務や責務はそのすべてが当人の意思や選択によるものではなく、自分自身の物語を通じて、選択とは無関係に、連帯や成員の責務を負う、というものだ。これによって、たとえば第二次世界大戦中のホロコーストで犯したユダヤ人への責任を現代のドイツ人が負う道徳的理由が説明できるのでは、というものだ。物語は道徳の根拠として十分だろうか? 連帯とか成員の責務というような道徳的な価値は、もっと単純な生物学的な基礎を持つのではないだろうか。人間は群れる動物だ。群れを作る動物には群れを守ろうとする性向があっても不思議はない。仲間を自己の拡大された一部として認識する態度を水平的連帯傾向と呼ぶことにすると、先祖や子孫を自己の拡大された一部として認識する態度は垂直的連帯傾向と呼べるだろう。群れる動物としての人間は、この水平的連帯傾向と垂直的連帯傾向を生まれつき持っているのではないだろうか。群れの一員として生きる動物として忠誠に価値を感じ、群れを率いる動物として自由を求めるのは、生得的な要素なのではないかと思える。」