[物理] 素粒子の交換による力の発生メカニズムの比喩的説明

 あちこちのwebサイトや物理の教科書のたぐいを読んで自分なりに交換力の説明を考えたので書いてみます。


 原子核は陽子と中性子でできているとされています。電子(electron: e-)は負電荷を持っていますが、陽子(proton: p+)は電子と同じ大きさで符号が反対の正電荷をもっています。中性子(neutron: n0)は電気的には中性でほぼ陽子と同じくらいの質量をもっています。原子核内には負電荷はありません。なのに、正電荷を帯びた陽子と電気的に中性な中性子だけが寄り集まっていられるのはどうしてでしょう?
 なぜ100以上もの種類の元素の原子が存在できるの?
 なぜ宇宙は(その中にある生命や人類やあなた自身を含むような)こんなに多様でいられるの?


 というような疑問には、「核力(nuclear force)があるから」という回答がよくなされます。核力というのは、だいたい次のように説明されます。日本の物理学者、湯川秀樹が1935年に28歳で提唱し、後に発見された中間子というものが存在している。その中間子(パイ中間子(pi-meson)、略してパイオン(pion)、正電荷を持つのでπ+)が陽子と中性子の間で交換される。それがすなわち陽子と中性子をつなぎとめる引力として働くのだ、と。
 中間子のような粒子を交換することは、あたかもキャッチボールをする二人の人が互いに離ればなれにならないである距離以下に居続けなくてはならないようなものであり、およそ素粒子レベルの世界では、力というのは中間子であれその他の粒子であれ、なんらかの粒子を交換しあうという相互作用(交換力(exchange force))なのです、とよく説明されます。


 でもこのキャッチボールの比喩って、なんだかよくわからなくないですか?
 なんでキャッチボールなんてするの?
 キャッチボールでどうして引力になるの?
 キャッチボールすると、直感的にはかえって反動で斥力が発生しそう。というようなわけで、キャッチボールをするイメージと、それが引力と呼べるということが、どうもつながらないのです。


 そこでこのキャッチボールにかわる比喩的なイメージを描いてみましょう。


 まずは状況の確認から。


 水素原子の原子核(H+)は実は1つの陽子(p+)です。ですから、原子核内に複数の粒子があるわけではないので、原子核内の粒子どうしが互いに引き合わなくてはならない事情はありません。しかし、もっとも単純な水素を除くどの元素もその原子核にはひとつ以上の陽子を持っています。たとえば原子番号2番のヘリウムの原子核(He2+)は陽子が2つと中性子が2つ(p+ n0 p+ n0)でできています。陽子どうしはお互いに同じ符号(でおなじ大きさ)の正電荷を持っているので、電気的には反発しあうはずです。


 なぜかはしばらく置いておくとして、ともかく電気的に中性な中性子と電気的に正の電荷を持つ陽子が近接して存在するのです。この事実は、電気的な力ではない力が働いて2つの粒子をつなぎ止めている(電気的な斥力に打ち克っている)と考えれば解釈できます。


 ではなぜ? どうしたらそんな状態になれるのでしょう?


 これに似た状況に、水素分子があります。水素分子というのは水素原子が2つくっついて分子となって存在しているものです。ところが水素原子というのは陽子の周りに電子が1個あるものです。水素原子核というのは実は単一の陽子です。(陽子だけの水素のほかに、中性子をひとつ余分にもつ重水素、ふたつ余分にもつ三重水素もありますが、それはまた別の話です。)


 水素分子の2つの水素原子核の結合の場合は、電子の共有結合だと言われます。共有結合とは、2つの正電荷を帯びた原子核が1つの負電荷を帯びた電子を共有することができ、その共有をつづけるためにはお互いが電気的に正電荷どうしで反発しあうはずであるにもかかわらず近接したままでいつづけるという状況にある結合方式です。


 この種明かしは、不確定性原理です。不確定性原理というのはドイツの物理学者、ヴェルナー・カール・ハイゼンベルグが1927年に26歳で提唱した量子力学上の原理とされるものです。(原理というのは、理由はわからないけれどもとりあえずそれを認めると、それを使って他の現象を説明できて便利という、数学上の公理のようなものです。ただし、物理学は数学ではなく、原理は公理ではないので、原理が間違っていると後で実証される可能性もあります。相対性理論での光速度一定の原理もそうですが、直感には反するような要請です。しかし、実験的にも確かめられているので、その限りにおいて受け入れるべきものです。また、不確定性原理の場合は、のちに量子力学が複素ヒルベルト空間上の状態ベクトルという数学的な表現で定式化されたため、そこから数学的に導かれる関係式の物理的な解釈として知られるようになりました。)不確定性原理とは、自然界は、人間の生活上の基準からすればごくごく小さくて完全に無視してもさしつかえないような、それでいて、素粒子レベルではぜんぜん無視できないような大きさの不確定性を許すようになっているというものです。というかむしろ、完全に確定することを許さないといったほうがいいでしょう。不確定性というのは2つの物理量(たとえば、どこにあるかを示す位置座標とどのくらいの勢いでどっちに動いているかということを示す運動量)を同時に両方とも完全に測定しようとしてもそれは誰にもできないということです。単に人類には技術的に到達できないというのではなく、どんな自然現象もどんな人工的現象をもってしても不可能だといっているのです。宇宙はそんなふうにできていると言っているのです。上手にやればいくらでも正確に測定できるはずという考えは事実に反するというのがこの原理の主張するところです。
 たとえてみれば、不確定性原理とは、ながら勉強の限界のようなものでしょうか。位置と運動量のペアのような2つの物理量を同時に正確に観測しようというのはテレビを見ながら本を読むようなもので、どちらかに意識が偏ると他方がおろそかになり、両方を同時にやろうとするとどちらもいいかげんになってしまうというわけです。


 不確定性原理によって、位置と運動量にはプランク定数程度というごくわずかな、しかし素粒子の世界ではまったく無視はできない不確定性の究極的限界があります。いいかえれば、位置の不確定さ(測定精度)と運動量の不確定さ(測定精度)を掛け合わせた量はプランク定数程度の有限な大きさよりも小さくすることはできません。つまり、位置をどこまでも確定させていくと、やがてこの壁にぶつかって、それ以上位置が確かになれば、それに見合っただけ運動量の不確かさが避けられないということです。つまり決定できる位置の不確かさが大きくなるほど、運動量、したがって運動エネルギー(これは運動量の2乗を質量の2倍で割ったものです。)の確かさを上げることができます。


 水素分子の場合、水素原子核 p+ と p+ に、電子 e- と e- が存在しているという構図になります。もともと、電子とか陽子という存在には本質的に個性がありません。なので、p1 と p2 とか e1 と e2 という区別はできません。そこで、水素分子の構成としては、 p+ e- e- p+ とか e- p+ e- p+ とか e- p+ p+ e- といった並び(実際は3次元ですが)があり得ます。2つの水素原子が近くになく、個別に存在しているときは、p+ e- と p+ e- が別々にあるわけですが、2つの水素原子が十分に近接すると、電子は本質的にどの電子ということが区別できないので、ふれあうように近接した2つの水素原子の電子は混じりあいます。そして、まじりあった電子は、どちらの電子がどちらの原子に属するとは言えない(2つの水素原子核に共有されている)状態にあります。つまり、たがいに遠く離れていて単独の水素原子であったときよりも、複数の水素原子にまたがるより広い範囲に渡って電子は存在していることになります。このとき、電気的な引力による電子の位置エネルギーは2つの水素原子に渡るより広い領域でおなじ値をとることになります。もともと電子は、2つの水素原子が遠く離れていたときには、単独の水素原子核のまわりにあるので、その分せまい領域に閉じ込められていました。これは小さな位置の不確定性を強いられているということです。そのために大きなエネルギーをもたざるを得なかった電子は、ひろびろとした2原子分子の領域にやってくると、いまやより低い運動エネルギーに落ちつくことができます。たとえてみれば、せまいワンルームマンションで癇癪持ちだった人が、ひろいマンションに移ってほっとすると柔和になるような感じですね。このようにして、水素原子はよりそい、水素分子となったほうが安定となります。くっついたほうがエネルギー的に安定ということは、つまり反発する力に拮抗する引力が実際に発生しているのと同じことです。
 これをたとえてみれば、二人の人が別々に生計を立てているよりも、共同で生活したほうが融通がきいて生活しやすいので一緒に暮らすことになったようなものですね。一緒に暮らしているということは、お互いに愛着が生まれていると見なせるというわけです。


 ではこれを、こんどは水素以外の元素の原子核で、負の電荷がなく正の電荷を持つ陽子と電気的に中性な中性子だけからなるそれらの原子核がなぜかたまりあっていられるのかという問題に寄せて考えてみましょう。


 これまた不確定性原理によって、時間とエネルギーにはプランク定数程度というごくわずかな、しかし素粒子の世界ではまったく無視はできない不確定性があります。いいかえれば、時間の不確定さ(測定精度)とエネルギーの不確定さ(測定精度)を掛け合わせた量は、最低でもプランク定数程度の有限な大きさをもちます。つまり、ぶっちゃけていうと、わずかな時間なら、エネルギーの前借りができるということです。ただし、借りっぱなしはダメです。借りたエネルギーはすぐに消して、借りたエネルギーの大きさに応じた短い時間内に帳尻があっていないといけません。こうした、自然界における裏事情によって、短い時間であればあるほど大きなエネルギーを借りることができます。
 アインシュタインの公式 E=mc2 で表現されるように物質はエネルギーなので、エネルギーが借りられるということは、そのあいだだけ存在する物質があってもいいということになります。
 原子核は原子全体のサイズにくらべるとはるかに小さい領域なので、その小さな場所に正の電荷を詰め込むには大きな引力、したがって大きなエネルギーが必要です。さきほどの水素原子核を結びつける電子の役割をするのがこの大きなエネルギーによってかりそめの存在を許される粒子です。この粒子は先に紹介したようにパイオンと呼ばれます。ここで陽子は実は中性子とそのまわりにあるパイオンから成っていると考えましょう( p+ = n0 + π+)。電荷の保存則によって電荷はトータルで等しくないといけないので、パイオンは正電荷を持つはずです。電子を伴う陽子を水素原子と呼ぶように、パイオンを伴う中性子を陽子と考えているみたいですが、実はちょっと違います。パイオン不確定性原理が許すごく短い時間だけ存在する仮想的な粒子だからです。(電子はずっとその存在が観測できます。)別に陽子に内部構造があると考える必要はなく、陽子が中性子パイオンに分離可能で、逆にまたパイオン中性子と一緒になると陽子になる、という結果だけが必要です。さて、すると、水素分子が水素分子でいられるのと同様のしくみで、陽子と陽子が緊密に結合できることになります。ただし、水素分子の場合とくらべてはるかに小さい領域に2つの陽子を閉じ込めるわけですから、電子の共有による引力よりもはるかに強力な引力が発生していることになります。そこで、このパイオンによる陽子どうしや陽子と中性子のあいだの引力は(べたですが)強い力と呼ばれます。(強い相互作用とも呼ばれます。)複数の陽子のあいだを目にもとまらぬ早技でパイオンが行き交うことによって、陽子と中性子がたがいに役割を交替しながら近くにありつづける状態が持続するということです。
 これをたとえてみれば、子供たちがマンガを回し読みすることによって、本来ならばらばらに遊びまわるところをせまい部屋の中でもおとなしくしている様子と言ってもいいかもしれません。現にマンガ(パイオンπ+)を持っている子が陽子(p+)、順番待ち中の子が中性子(n0)ということになりますね。


 まとめです。
 力が発生するというのは、本来なら反発するところがそうならない、あるいはその傾向が弱まるということです。粒子を共有または交換することで、不確定性原理によって個別に存在するよりも広い領域に渡ってぼんやりと存在することが許されると、それだけ運動量が小さくてすみ、運動エネルギーが低い状態に落ち着くことが許されます。これが粒子の交換は引力を形成するという意味です。ひとつのもの(交換される粒子)を共有すると、共有しあっているものどうしは本来なら反発しあうはずのものであっても寄り集まっている状態が安定となります。これは、必需品を融通しあって暮らすルームメイトのようなものです。
 以上、自然界の大人の事情でした。