なぜ時間方向には逆向きに移動できないんだろう?
地球上では重力が大きくて上向きの移動には骨が折れる。しかし階段やエスカレータを使えば移動できないことはないし、多少なら自分の足でジャンプすることもできる。前後左右になら移動するのに困難はない。このように、空間内ではどちら向きにも自由に移動できるのに、時間方向となると過去から未来に向かう一方向にしか動けないのはなぜだろう。
一九四九年には故リチャード・ファ インマンが、反粒子とは時間の中を逆に動いている(正)粒子とまったく同じものだということを、数学 的に示している。*1
さて、反粒子はこの宇宙にはほとんど見当たらないという事実がある。そこでファインマンが示してみせた反粒子は正粒子が時間的に逆に動いているという解釈にしたがえば、時間的に正方向に動く粒子ばかりがこの宇宙を作っている(ようにみえる)ということになる。本来は時間的にも正の向きにも逆の向きにも動けるはずの粒子だが、(対生成によって正粒子と同数の反粒子をつくることはできても)この宇宙は圧倒的に時間の正方向に動く粒子ばかりでできているということだ。我々が空間方向には自由に移動できても、時間方向には自由に往来できないのはそのせいだ、ということはできないのだろうか? キップ・ソーンはワームホールを利用したタイムマシンの作り方を考案したりしているが…*2
粒子の個数をバリオン数という。バリオン数は近似的に保存する。「保存する」という言葉の意味は、反粒子一個を正粒子マイナス一個と数えることにすれば、正粒子と反粒子の合計は一定のままになるということだ。つまり、通常の粒子/反粒子の相互作用の前後ではバリオン数の合計はふつうは変化しないということだ。
保存するではなく近似的に保存するという奥歯にものがはさまったような言い方をしたように、ふつうでない場合があるのだ。有名な(しかしまだ仮説的な)例が陽子の崩壊である。陽子が崩壊する場合、大統一理論によれば、バリオン数は保存しない。その場合、陽子1個は電子1個と中性パイオン1個、もしくは、ニュートリノ1個とプラスのパイオン1個に崩壊する。陽子のバリオン数は1だが、電子もパイオンもニュートリノもレプトンであってバリオンではないのでバリオン数はどれもゼロである。だからこの場合バリオン数が1からゼロに変化したことになる。
しかしこのような反応はまれにしか起こらない。どのくらいまれなのか。陽子崩壊の観測実験によれば、陽子の平均寿命は10の33乗年(10溝年)以上ということである。これにくらべて宇宙の年齢はWMAP*3の観測によれば、たかだか137億年つまりだいたい10の10乗年程度といわれている。つまり宇宙の年齢のさらに10の23乗倍ほどの年月がたってやっと平均的な陽子は崩壊するだろうということだ。そういってもぜんぜんピンとこないが、宇宙の年齢を仮に1ミリメートルの長さで表したとしよう。そうすると陽子の寿命は10の23乗ミリメートルだ。これはだいたい1万光年ということになる。銀河系の直径が約10万光年だから、その10分の1くらいの長さということだ。宇宙の年齢を20ミリメートルつまり2センチメートルで表したとすると、陽子の寿命は200万光年。これはだいたい天の川銀河系のお隣りの銀河であるアンドロメダ銀河までの距離に等しい。陽子が崩壊するのは、それほどまれだということだ。ともかく、そんなにもまれではあってもバリオン数は保存しないことがあると理論的には予言されているわけである。
本来なら、正粒子と反粒子が衝突すると対消滅を起こして同じだけのエネルギーをもった光子に変換されてしまうはずなのに、それにもかかわらず、現在の宇宙にはほとんど正粒子ばかりでできた正物質ばかりがあふれているように見える。ということは、正粒子と反粒子を選り分けるようななんらかのプロセスがあって正物質だけが漉しとられたのが現在の宇宙であるか、そうでなければバリオン数が保存されない陽子崩壊のようなプロセスが反粒子についてより頻繁に発生したために正粒子が取り残されたかして、現在の宇宙には反粒子がなくなってしまったということだ。
*1:K.C.コール=著、大貫昌子=訳「真理の不変性」『数学の秘かな愉しみ 人間世界を数学で読む』p.260
*2:このタイムマシンの検討は、カール・セーガンから小説「コンタクト」での超光速航法についての相談を受けたことが発端となったとどこかで読んだ記憶がある。たとえば「キップ・ソーンがタイムマシンを``発明''するまで--それはカール・セーガンのSFから始まった」http://homepage3.nifty.com/iromono/kougi/timespace/node49.html 参照。
*3:Wilkinson Microwave Anisotropy Probe: ウィルキンソン・マイクロ波異方性探査機