自己意識のふしぎ

 ピンカー「人間の本性を考える(上)」94ページ。

 神経科学者のマイケル・ガザニガとロジャー・スペリーは、「統一された自己」というものが幻想であることを劇的に実証してみせた。左右の大脳半球をつなぐ脳梁が外科的に切断されると、自己が二つに分割され、それぞれの半球が他方の助言や同意なしに自由意志を行使することを示したのである。さらにとまどいを感じさせるのは、左脳は、左脳の感知しない状況で右脳が選んだ行動の説明を求められると、一貫性はあるがまちがった説明をでっちあげるという事実である。たとえば、実験者が「歩く」という指令を(視野を区切って、右脳だけが見ることのできる左視野に置くことによって)分割脳患者の右脳にだけさっと見せると、患者は要求に応じて、歩いて部屋から出て行こうとする。しかし、その人に(具体的には[言語半球優位である]その人の左脳に)、なぜ立ち上がったのですかと聞くと、おおまじめで「コーラを買いに」というような返事をする。「わかりません」「なぜだか歩きたくなったんです」とは言わないし、「手術をしてからもう何年も検査を受けつづけて、ときどき何かをさせられますが、そのとき何をしろと求められたのかよくわからないのですよ」とも言わない。同様に、患者の左脳にニワトリの足先の絵を見せ、右脳には雪が降っている絵を見せて、それぞれに見た絵に関係のある絵を(それぞれの半球が支配するほうの手で)選ばせると、左脳はニワトリの絵を(正しく)選び、右脳はシャベルの絵を(こちらも正しく)選ぶ。しかし、どうしてあなたはその二つを選んだのですかと聞くと、[右脳が雪の絵を見せられたことを知らない]左脳は、無頓着に「簡単ですよ。ニワトリの足はニワトリと関係があるし、シャベルはニワトリ小屋を掃除するのに必要ですから」と答える。*1

 これはほんとに「自由意志とは何か」と考えさせる鮮やかな実験だ。
 自由意志があるのではなく自己弁護がある、ということか。
 「意識」というのは、「行動」という作家の作品を論評する評論家なのだろうか。

 自分を感じること、意識のある自分、それが自分の体の中の神経網のなせるわざ。
 その上を走る信号。その上に起こる反応。
 そう考えていると、それすらもおもしろいと思っている自分がある。

 宮沢賢治の詩を思い出した。*2

わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失われ)

*1:Gazzaniga, M.S. 1992. Nature's mind : The biological roots of thinking, emotion, sexuality, language, and intelligence. New York : Basik Books.; Gazzaniga, M.S. 1998. The mind's past. Berkley : University of California Press.

*2:引用元:http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9548/light.html