「『予測』と『回避』である。この二つだけで、いわゆる通常の環境因子によるストレスだけでなく、薬物で体に直接与えられたような強制ストレスさえも克服できるのである。」(薬学博士 池谷裕二)

 

 脳の中にある海馬の研究者として著名な人の言葉です。

 

 ミシガン大学アベルソン博士の実験で、薬剤投与による強制的なストレスを与えられた28人は、投薬によって起こるかもしれない副作用の説明を事前に受け、もし気分が悪くなったら自分で投与量を調節できるボタンを枕元に用意してもらいました。するとそれだけで、ストレスホルモン上昇が80%も減らすことができたそうです。

 

 つまり、ストレス要因を受けることが避けられない場合、予測と回避手段を手にしているだけで(実際にその回避手段を使わなくても)ストレス増大を避けることができるということなんですね。

 

 う〜ん。そうですか。なるほど。たしかにありそうな話ですね。

 

 ところで、この知見は、「自殺は許されるべきか」という問題に適用できそうです。

 

 自殺は許されるべきか。これに対する現在の私の回答は、イエスです。社会は自殺を許容すべきだと思います。どうしても耐えられなくなったときは、自殺もやむをえません。緊急避難としての自殺は権利として尊重されるべきです。そして、自殺者は非難されるべきではありません。

 

 こう社会的に規定することで、自殺という最終手段を当人に握らせることになります。アベルソン博士の実験が支持するように、そのことが予測と回避の手段を与えるようになるなら、かえって自殺するまでに当人を追いつめるストレスを軽減するということにもなるでしょう。それはむしろ歓迎されてよいことではないでしょうか。

 

 たとえば癌で余命がいくらもないとわかっていても、その癌による死を受け入れることは必然ではありません。なぜなら、そのまま望みのうすい治療を続けている間にも、癌による死の前に震災による事故死、交通事故死、他のより即効性のある病気による病死、等々、実際の死因は他のものにすりかわる可能性があるからです。死因は、けっして確定しているわけではありません。

 

 そうであるならば、人には自分自身の死に様を選ぶ自由があってもよいのではないでしょうか。たとえば病気で死ぬよりは趣味の雪山登山での滑落死を選びたいという人があってもいいのではないですか。痛みと苦しみに耐えながら人工的な蘇生手段に縛られつづけるよりも、薬物による痛みの少ない穏やかで速やかな死を選びたいという人があってもいいのではないですか。私はそうも思うのです。

 

 ただし。

 

 社会は、自殺を推奨するべきではありません。いわんや、自殺者を増やすような政策を策定したり、自殺者を褒めそやすような風潮をあおるべきでは絶対にありません。

 

 むしろ社会は、自殺者がゼロになることを目指してたゆみなく自己改革を推進するべきです。事故死の確率を下げ、病死の危険を低減し、治療行為の苦痛を緩和し、生きる喜びを享受できるチャンスを最大化するべきです。

 

 でなければ社会そのものが長期的に自壊するでしょう。社会の構成員の自殺は、社会の敗北であり、社会それ自体の緩慢な自殺に他ならないことを、我々は自覚するべきだと、私は思うのです。

 

出典:池谷裕二「脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?」新潮文庫

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)

脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!? (新潮文庫)