虫の意思は無視? 操られる昆虫サイボーグ

 子供の頃の夏の日に、カブトムシの首に糸を付けて飛ばして遊んだことがあった。近所の子供たちがみんなそんなことをしていた。それはまるでリモコンでカブトムシを飛ばしているような気分だった。カブトムシたちにとっては迷惑以外のなにものでもなかったろう。いや、それ以上だ。カブトムシは強く飛び、あるいは子供に糸を振り回されて、食い込んだ糸がカブトムシの首を切断してしまうこともあった。あわれにも、首のとれたカブトムシは捨てられた。なにも悪いことはしていないのに。

 単に糸を付けて自由な飛翔を妨げるのではなく、電子装置で昆虫の神経系に介入してその行動を強制する。昆虫の遠隔操縦。そんな研究が行われているそうだ。

「翔べ! 昆虫サイボーグ」
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/1103/201103_042.html
「昆虫を偵察サイボーグ化:成虫まで生かすことに成功」
http://wiredvision.jp/news/200803/2008032722.html

 カブトムシやセミやガのような比較的大きい昆虫が現在の研究対象のようだが、いずれはもっと小さい昆虫も対象にできるようになるだろう。アリやカやハエのような小さい昆虫をサイボーグ化できるようになるのも時間の問題でしかない。

 ハエやカをサイボーグにして操ることができれば、それはスパイとして使うこともできるが、殺人兵器にもなる。マラリアやツェツェ病を媒介する代わりに新種の病原菌をカやハエに媒介させたり、大群で鼻や口や目に突撃させて窒息死させたりすることもできるようになってしまうことだろう。

 こういう生きた兵器としての昆虫のサイボーグ化は、恐ろしいだけでなく、昆虫に対する権利の侵害であるように私には思える。私自身、虫も殺さぬ人間ではないが、過去においても現代においても、昆虫に対して権利を認めるような考えは一般的ではない。害虫とか益虫という分類を恣意的に定め、害虫は盛大に駆除してもよいとされているし、益虫でさえ、産業的な利益を侵害しない限りは殺してもなんら問題とはされないように思われる。動物愛護法はあっても昆虫愛護法はないのだ。

 おそらく、問題視するべきなのは生態系としての調和が乱され、それが巡り巡って結局、健康で豊かな人間の生活にも悪影響を及ぼす可能性のほうなのだろう。

 一寸の虫にも五分の魂という諺がある。肉体とは別に精神のみが独立に存在するとは考えられないが、「魂」とは尊重されるべき無形の価値という意味だとすれば、それはたしかにあるように思う。昆虫のサイボーグ化には、どこかあわれを感じずにはいられないものがある。あの夏の日の首を失ったカブトムシたちに感じたのと同じようなあわれを。

   操られカブトムシたち飛んでゆくあの夏の日の首を探して