臓器移植

 正月に帰省したときに、母が「臓器提供はしたくない」と言っていた。
 自分はどうか。したいとも思わないがしたくないとも言い切れない。どうもあいまいだ。
 そういう技術があり、それを求める人がいて、それに応える人もいるのなら、世の中に臓器移植というものがあってもいいと思う。それは、死にそうな人をたすけることは、死んでしまった人を悼むよりも重要だという気持ちがあるからだ。正面切って臓器移植に反対するというのは、反社会的な行為ではないかといぶかる自分がいる。ただ、臓器提供にあたっては、臓器の摘出は死後なるべく早いほうがいいから、ほんとうに完全に死んでるのかどうかが微妙なところが問題だ。
 脳死は人の死。そうかもしれないが、永遠に目覚めることなく眠ってしまえばその体を死体として切り刻んでいいものか。その眠りはほんとうに永遠のものなのか。自分が脳死の判定を受けたとき、ほんとうに自分は死んでいるのか。ほんとうに自分はどこにもいなくなっているのだろうか。そこには、すっきりと割り切れない問題が浮かんでくる。
 もし臓器移植に賛成することにすれば、臓器移植支持との一貫性を維持して認知的不協和を解消するために、自分の臓器の提供にも同意しようとする心理的圧力がかかる。
 自分の気持ちを覗いてみると、ためらいがある。確信は持てない。脳死は未経験のことなのだから、確信が持てるわけがないとも言える。
 ひとつ言えそうなのは、愛する者のためならば、この身を捨てても惜しくない、ということだ。だがそれ以外には、やはり自分がいとおしい。提供すれば助かる人がいて、その人が好きな人なら、提供できることがうれしい。嫌いな人なら、たぶんくやしい。それが偽りのない、いまの気持ち。だな。