金曜日の夜のこと

 正確には、金曜日の夜のはずだったこと。
 財布をなくした。
 落とした音にも気付かなかったし、どこでなくしたのかもわからない。
 金曜日の夜、最寄り駅の改札を出るときには、いつものようにsuica定期券を財布ごとかざして通ったはずなので、そのときは確かにあったはずだ。自動改札にドアを封鎖されることなく通りすぎることができたわけだから。しかし、その後の記憶がない。電車の中からずっと、英文の雑誌を読んでいた。IEEEのSPECTRUM。火星の特集号だ。改札を出てからもしばらく夜道の暗がりにもかかわらず読み続けていた。帰宅後は服を着替えるために脱いで、ズボンは洋服掛けに掛けた。カッターシャツと靴下は洗濯物入れへ。そして、財布には思いを寄せることなく、翌朝を迎えた。
 気付いたのはその朝だ。きのう一日の金銭出納を記録しようと思って財布を取りにズボンのポケットに手を入れてはじめて気がついた。財布がない。ハンカチタオル地のやわらかさと歩数計の硬いドミノのような感触だけがあった。すべてのポケットをまさぐり、ズボンのまわりを探し、あたりの棚の上を見渡したが無駄だった。洗濯物の山をかき分け、食卓のまわりやその下を探し、鞄のなかをくまなく探してみたがだめだった。玄関のどこかにひょいと置いて忘れなかったか。洗面台の周りに置き忘れたりしていないか。思いつく限りの場所を探してみたがない。
 朝食後、決心した。最寄り駅からの通勤路を逆にたどってみよう。道路に落としていたのだとしたら、現金はなくなってしまっているかもしれない。それでも、ひょっとしたら財布や現金以外のものは残っているのではないだろうか。そんなつもりで、ゆっくりと昨夜歩いた道を逆に歩いてみた。なかった。
 駅に着くと、定期券の忘れ物を列挙したホワイトボードを見てみたが、自分の名前はなかった。駅前には交番がある。このさい、交番に届けておくことにした。交番のドアはアルミサッシの引き戸だった。少し立て付けが悪い。ひきずるようにして開ける。巡査は三人。中年の男性と若い男性、その中間くらいの男性。みんな同じような青い制服だが、ひとりひとり装備が微妙に違う。着こなしも違う。個性が表れる。声をかけると応対してくれたのはいちばん年かさの巡査だった。
 状況を説明し、遺失物の捜索願を記入してもらう。定型のアンケート用紙のような帳票に記入するのだが、それをまたPCに入力しなおすらしいので、はじめからPCに入力しましょうかと申し出たが断られた。決まりでもあるのかもしれない。覚えている限りの財布の中身と、もしかしたら入っていたかもしれない中身を列挙した。財布の色は黒。ブランドはPORTER。suica定期券。その区間。銀行のキャッシュカードとクレジットカード。もしかしたら健康保険証とゆうちょカードも。
 交番の後は、最寄り駅にもsuica定期券入りの財布をもしかしたら構内で落としたと届け出た。すぐに電話して確認してもくれたが、みつからないようだった。再発行には身分証明が必要だが、手持ちがなかった。500円の手数料と500円のデポジットも必要だとわかった。
 帰宅後まもなく、カード類を確認したところ、健康保険証とゆうちょカードはカード入れにあった。財布には入れていなかったわけで、さっそく交番に電話して伝えた。そのあとクレジットカードと銀行にもそれぞれ電話で届け出た。クレジットカードもキャッシュカードも、紛失後の利用形跡はなかった。クレジットカードもキャッシュカードも再発行ということになる。クレジットカードは電話によって再発行が決まるがキャッシュカードのほうは銀行の最寄り支店(どこでもよい)まで出向く必要がある。そのかわり、キャッシュカードは停止されるが通帳による取引や口座による取引は途切れなく継続する。クレジットカードのほうはそのカードによって取引がなされるので、すべての取引が一旦停止することになる。
 このごろ、よくものをなくす。このあいだは、電車の中で折りたたみ傘を忘れてなくした。今回は財布だ。次は、何をなくすのだろう。用心が肝心。