青く冷たく沸騰する酸素

 きょうは、六本木の国立新美術館に行ってきた。


 観たのは「野村仁 変化する相―時・場・身体 NOMURA HITOSHI PERCEPTIONS―CHANGES IN TIME AND FIELD」。
http://www.nact.jp/exhibition_special/2009/03/nomura.html


 量子宇宙論のなかで説かれるような、子供宇宙、孫宇宙が次々と生まれてくる様子をイメージしたようなガラスの作品の写真を事前に見て、間近に見てみたくなったのだ。


 その作品も、もちろんあった。ただ、もう少し詳しい説明がほしかった。それらしいタイトルは掲げてあるのだが、もう一歩踏み込んだ周辺知識の解説があってもいいのではないかと思った。さらに想像力を誘うような展示の余地はありそうだ。


 入り口のそばには、巨大な段ボールの箱を積み上げたようなオブジェが聳えていた。
野村仁の大学卒業制作作品だということだった。巨大なので、存在感はある。段ボールはかなり新しいように見えた。ひょっとしたら、この展覧会のために同じものを作り直したのかもしれない。


 そこから遠くないところに、液体酸素を閉じ込めた消火器くらいのガラス容器がその前にいくつも並べてある壁があった。液体酸素はまるでブルーハワイかラムネ味のアイスキャンデーのような白々と明るい透明な水色だった。それがあまりに水色なのに魅惑された。触ってはいけないのだが、つい触ってみたくなった。しかし実際に触ると指が二重ガラスの透明な魔法瓶のような壁面にくっついてしまいそうなので我慢した。ぷくぷくと泡を吐きながら、静かに沸騰している液体酸素は美術作品としてというよりも、非日常的な自然の姿として興味深かった。


 野村仁は、しつこいくらいに繰り返し記録した結果を作品とすることが好きなのかもしれない。それはある意味、実直な博物学者や地道な科学者にも似た姿勢だとも言えそうだ。道路に日時を書いて一日に何枚も撮影した写真の連作があった。同じように大きなドライアイスのかたまりが次第に昇華して軽く小さくなっていく様子を撮影した写真連作もあった。街の様子を一日に何十枚も撮影した写真を何年も撮りためてそれらを百科事典か文学全集のような何冊もの本の形にした作品もあった。様々な日常の音を黒くて大きなレコード盤やカセットテープやCDに記録した作品もあった。おそらく多重露光なのだろう、定点観測によって太陽や月の連続写真を一枚の写真に重ねた作品もあった。変わった作品だとは思う。非常に期待して観に行ったのだが、私の心は掴まれなかった。いや、私の心が掴み損ねたというほうが適切かもしれない。作品群は、みな静かにそこに固まっていた。連続写真ですら、静止した瞬間を並べてあるようで、動き出しては見えなかったのだ。私の想像力が貧困だからだろうか。そうかもしれない。展覧会に酔うほどに魅惑されたかったのに、そうはならなかった。残念だ。太陽の年間の動きを表した細長い8の字型の金色のオブジェは美しかったのだが。


 心に留まったのは、化石化した樹を楠の木の切り株の上に据え付けた作品だ。切り株からは、樹のいい香りがした。樹の化石は、なるほど樹の姿を留めてはいるのに、まるでプラスチック樹脂のコーティングが施されているかのように艶やかで、室内の照明を滑らかに照り返していた。


 ふりかえって思い出すのは、青く冷たく沸騰する酸素のことだ。それは静かだが、なにごとかを呟いているように思えたのだ。