金星:地獄の美神

金星は、地球に住まう人間が夜闇に仰ぐ星のうち、ひときわ輝く星である。
全天で太陽と月に次ぐ第三位。その明るさは、影さえできるほどなのだ。


PIA01544: Venus (1999-05-18 Hubble Space Telescope)

英語を話す人々は、金星をヴィーナス Venus と呼ぶ。ギリシア神話の美の女神アプロディーテーローマ神話で名前を変えた名ウェヌスである。


サンドロ・ボッティチェリヴィーナスの誕生


PIA00104: Venus - Computer Simulated Global View Centered at 180 Degrees East Longitude (1996-11-12 Magellan)

金星は、美の女神になぞらえられるに価する。その形は太陽系の惑星の中で最も球に近い回転体であり、公転軌道もまた太陽系の惑星の中で最も真円に近い楕円軌道である。自転軸の傾きもわずかに2度でまっすぐ公転面に直立する。(それゆえ季節は生じない。)太陽系の惑星の中で最も均整のとれた惑星だ。
金星は、地球の姉妹惑星とも称される。地球よりひとまわり小さく、その公転軌道もまたひとまわり地球より小さい。


PIA00270: Venus - Computer Simulated Global View Centered at 90 Degrees East Longitude (1996-09-23 Magellan)

しかしその金星には魔王の異称がある。光をもたらす者。その名はルシファー。神に反逆して地獄に墜とされ、地獄の王を名乗った堕天使である。


ギュスターヴ・ドレによる「神曲」地獄篇を描いた連作の34番

金星は、そのルシファーにふさわしい属性をも併せもつ。
自転軸は太陽系の他の惑星のどれとも異なり、逆転している。すなわち、自転軸の傾きは、正確には178度なのである。そのため、太陽は東から西には沈まず、西から昇り東に沈む。金星は太陽系の反逆者なのだ。
金星の地表は厚い二酸化炭素と窒素の雲に覆われ、地球から地表を観ることはできない。
それでも探査機による観測からわかるその環境は、金星をまさに地獄と呼ぶのにふさわしい。


PIA00106: Venus - 3D Perspective View of Maat Mons (1996-08-01 Magellan)

雲の最上部は-45度C。時速350kmの強風が吹き荒れ、金星の全世界を覆う雲からは硫酸の雨が降り注ぐ。
しかしこの雨は地表にまで届かず、地表では風も時速数kmとおとなしい。
とはいえ地表での大気圧は90気圧。地表の温度は平均で426度C。400度Cを下回ることはないという。鉛や亜鉛なら融けてしまう温度だ。惑星全体が高性能な圧力鍋の20倍の圧力と4倍の高温に熱せられる超超強力な圧力鍋で調理されているようなものである。
激しい気圧に構造物や隆起は容赦なく蝕まれ、風化させられる。*1
自転はしていても昼も夜もない絶え間ない高温の世界が、季節すらもなく、永劫に続くのだ。

劫火に焼かれる金星は、しかし、それでもなお、美しい。


金星画像: Courtesy NASA/JPL-Caltech.

*1:写真 PIA00106 はコンピュータ処理された画像であり、高さが10倍に拡大されている。