走馬灯を知らないのに走馬灯のようにと言ってていいのか?

 死を目前にすると思い出が「走馬灯のように」流れる、とよくいわれる。走馬灯現象*1というものだ。星新一ショートショート「午後の恐竜」はこの現象を地球規模に拡大解釈したストーリーだった。
 本来の走馬灯は、回り灯籠とも呼ばれる一種の玩具だ。回転する影絵を映し出す幻灯器のような代物である。だが最近はこの本来の走馬灯の現物を見るような機会はめっきりなくなった。wikipediaによれば、単に「走馬灯」というだけで「走馬灯現象」を指すような使い方が見られるようになってきたともいう。
 この際だ。走馬灯というような言い方はやめてしまったらどうだろう。もっと身近なものでたとえなおしたほうがよいのではないだろうか。最近ではワープロのスペルチェッカーも文句を言わなくなってきているらしい、比較的新しい言葉がある。1973年には英語の単語としても認められていなかった言葉だそうだ。それは何かといえば、スライドショーである。(slideshowと一語で書くスライドショーはけっこう新しい言葉なのであった。)
 なに、スライドショーなんて嫌? そういうだろうと思った。

*1:パノラマ視現象ともいう