桃太郎

 折に触れて桃太郎のストーリーを考える。子どもの頃、寝る前によく母に語ってもらった話だ。その頃は、桃太郎の出生時点で足踏みすることが多かったと記憶している。桃から生まれたこの子をなんと名付けよう、というシーンが延々終わらないのである。自分たち兄弟の名前をはじめ、近所の子どもたちの名前や、テレビや他の物語に出てくる登場人物の名前を経て、もう先に進もうか、いやまだまだ、と命名の儀式を繰り広げるあいだに弟は寝入ってしまうということも再三だったと思う。


 ところで、この桃太郎のお話は、よく考えると謎だらけなのである。なぜ桃太郎は桃から生まれたのか。なぜ急に鬼退治に出かけたがったのか。なぜ犬・猿・雉が供に付いたのか。なぜ、またどう戦えば、たった一人と二匹と一羽で鬼に勝てたのか。鬼が桃太郎たちに引き渡した財宝とはなんだったのか。


 最大の謎は、なぜ桃太郎は物語上桃から生まれなくてはならなかったのかだ。桃から生まれたからといって、それが日本一強い男の子になる理由たりうるだろうか。桃から生まれたことは、その後の物語進行にまったく影響していないのではないか。なぜこんな伏線を張る必要があったのだろうか?


 実は、桃太郎は桃から生まれたのではなかった。そう考えてみたい。桃に見えたのは、胎児だった桃太郎をその中で育んだ保育器であり人口羊水器であったのではないか。桃太郎の桃とは、つまりモーセが入れられた蘆の篭であり、スーパーマンカル・エルが地球まで載せられてきたゆりかご宇宙船なのだ。


 ではなぜ桃太郎はそんなふうに流されてきたのだろう? 桃太郎の生みの親は、なぜ桃太郎を手放したのか。それはわからない。しかしなにかよほどの事情があったに違いない。その事情は後年桃太郎が成長してからの物語となにがしかの必然的な関連を持つべきだろう。


 桃太郎はどんな事情があって子どものない年老いた夫婦の許に送り届けられたのか。もちそんそれは単なる偶然かもしれない。桃太郎を拾い上げたのが子どものない老夫婦だったというのは偶然ではあるがある意味では必然でもあるのかもしれない。なぜなら、子どものある若い夫婦ならば自分たちの子で手一杯で、自分たちで育てる代わりに施設に届けたり、過酷な時代であれば、見殺しにすらしたかもしれないからだ。そうなれば鬼退治どころではない。子どもが欲しくてももはや自分たちの子は叶わない境遇の老夫婦こそ、その持てる知恵と財力を傾注して桃太郎の限りない成長を支援し得る、必然的な養親だったということもできるのではないか。


 桃太郎がまだ幼くして強くたくましい少年となり、ある日唐突に鬼を征伐に行くといって聞かなくなったのはなぜか。それは桃太郎の謎めいた出自とともに、思春期の激しい生理的変化のなせるわざだったのかもしれない。


 なによりもまず、桃太郎の尋常ならざる欲求は、桃太郎の尋常ならざる出生に原因を求めるのが妥当ではなかろうか。そうでなくてどうして桃太郎だけがあえて鬼を征伐に行こうと思うだろうか。老夫婦は、他の子どもたちとは明白に異なる出生を桃太郎には隠していたかもしれない。しかしその出生を秘密にしたとしても、子どもにしては明らかに年の隔たった老親である。疑いを持たないまでも周りの子どもたちからは珍しがられ、怪しまれ、いじめられたとも考えられる。少しでも普通でない特徴はなんであれ誇張され、指差し笑われる。桃太郎の名前は、まわりの子どもや大人たちから付けられたあだ名だったのかもしれない。他の子どもたちよりも白く、血色のよい桃色の肌。それさえも、男のくせに美しすぎる。鬼子だ。そういって、囃し立てられる。


 理不尽ないじめに、桃太郎は強くならざるをえなかったか。その苦渋の幼年時代は桃太郎にストレスを与えたか。桃太郎の心に悲しみと諦めと怒りを湧かせたか。爆発する出口を求めてあふれさせたか。その通り、というのはありうる答えだ。
 その状況で、桃太郎は何を思い、何を考えただろう。自分は鬼などではない。人間だ。ごく普通の子どもだ。そう考えたかったかもしれない。おまえたちとどこがちがう。同じだ。見てろ。証明してやる。そう考えたかもしれない。自分は何者か。どこから来たのか。どこへ行けばいいのか。悩みもしただろうか。


 思春期の強い衝動にかられる少年は、かなり危険である。鬼を説得に行くというのではなく、征伐すなわち殺しに行くというのだから危険きわまりない。相手は鬼とはいえ、桃太郎は血気にはやる若者とはいえ、あまりといえばあまりに血なまぐさい志というべきだろう。あるいは、鬼を征伐するというのはただの言い訳だったのかもしれない。鬼に会いに行くと行っても誰もが止めるだけだ。忌むべきものを見るような奇異な目で視られたり、あからさまに罵ったりする人もいたかもしれない。征伐に行く。そう言えば、勇者となれる。見送ってくれる人も出てくる。そう考えたのかもしれない。あさましいかもしれないが、桃太郎にとってはそれがたったひとつ救われる道だったのかもしれない。


 桃太郎が狂気にも似た情熱を抱いた、その鬼とは何者だったのか。鬼とは外見的にはほぼ人間と同様の存在である。ただし、細部が多少異なる。肌の色が違う。赤や青あるいは黒などと異なる。目の色が違う。燃えるような色だったり宝玉のような色だったりと異なる。頭には角が生えているなどともいう。牛馬を喰らい、肉を引き裂く鋭い牙があるともいう。これらはしかし、人の噂である。鬼をよく知る者はいない。憎めば恐ろしげで醜い怪物と指差すことにもなろう。真実の鬼の姿が人間とどれほど違ったというのだろうか。しかしその真実は、今では時の彼方に失われてしまった。


 桃太郎はその鬼を征伐に行くといい、鬼のすみかである鬼が島に向かった。なぜだったのだろうか。ひとつには、自分の抑えがたい攻撃性の吐け口を求めていたのかもしれない。またひとつには、自分の尋常でない出生への疑問の答えを求めていたのかもしれない。そうだ。桃太郎は自分の攻撃性や破壊衝動を鬼に向けることで正当化しながら、あるいはそうであればこそ、自分と鬼との共通性を意識せずにはいられなかっただろう。そんなはずはない。だが、もしや。俺は、鬼なのか、と。それが桃太郎をして鬼退治にどうしても行かなくてはならない気にさせる理由だったのではないか。


 鬼が桃太郎一行を敵に回してあっけなく敗北してしまったことは、驚きである。いくら強いとはいえ、いくら奇襲だったとはいえ、たかだか一人と二匹と一羽の軍勢に、鬼と恐れられた集団がそんなにもあっけなく敗れるものだろうか? 鬼が島の鬼たちは、それほどまでに戦闘力を持っていなかったのか? それとも戦意を持っていなかったのだろうか?


 鬼がその悪名を轟かせたのは、桃太郎の生まれたときよりも実はかなり過去のことだったのかもしれない。桃太郎が鬼を征伐に出かけた頃、すでに鬼には往時の勢いはなく、もはや生物種、ないし民族として斜陽の存在だったのではなかろうか。消え行く種。滅び行く民。鬼たちには、かつては強大な力にものを言わせて収奪を繰り返した時代もあったのだろう。鬼の社会は当時の人間の社会に先行して発展していたとすれば、文化的には高度で、生活の質は高かったことだろう。しかし、少子高齢化が進み、平均年齢が高みに達して、もはや桃太郎一行を相手に十分に戦える力すら、いや意欲こそが、なかったのかもしれない。桃太郎は消えかかった蝋燭の炎のような鬼の社会に最後の一息を吹きかけただけだった。そうした解釈も可能かもしれない。


 鬼は桃太郎に対する敗北を認めた。そして桃太郎に対して持てる財宝を引き渡した。それらがいったい何だったのか、またどれほどだったのかは、いまとなってはわからない。だが、桃太郎はたしかにそれら財宝を持って老夫婦のもとに凱旋したことになっている。つまり鬼たちはそのすみかを追われたわけでもなく、また継続して桃太郎たちの支配下に置かれたわけですらなかったのだ。天災のように一時的なものであり、また伝えられるかぎり桃太郎の襲撃は一回限りのものだったようだ。鬼の生命財産に対する損害の実数はわからないのである。それは桃太郎や老夫婦にとっては大きなものだったのかもしれないが、鬼たちにとっての実際の損害の程度まで伝えるものではない。


 桃太郎は鬼たちとどのような取引をしたのだろうか。想像することしかできないのだが、それは桃太郎の性格が攻撃的なものだったとすれば、非常に寛大なものだったといわざるをえない。桃太郎の性格が攻撃的だと推定することをためらわせるほどである。なぜだろうか。もしかしたら鬼たちは、はじめから桃太郎が来ることを予期していたか、あるいは桃太郎を認めた瞬間に悟ったのかもしれない。


 あれは、われわれの子だと。


 鬼という種の衰弱した繁殖力、いいかえれば鬼たちの生殖能力の衰えは、通常の生物本来の手段での生殖能力を奪い去ってしまい、技術的な補助なくしては子どもすら生めなくなっていたのかもしれない。帝王切開や人工授精、さらには桃太郎を載せて老夫婦の許に流れ着いたのと同じ、胎児の頃からの体外養育。鬼たちは考えたのだろうか。自分たちの衰退した社会の中で育つよりも、まだ若々しい人間の社会で育つほうが鬼の将来が明るくなると。期待と望みをかけて子孫の一部を人間の社会に託したのだろうか。


 疑う桃太郎に鬼たちはたたみかけたかもしれない。幼い頃から他の人間の子どもたちとは少し違うことに気付いてはいただろう。そして成長するにつれてますますはっきりとわかってきたのではないか。大人になろうとしている今、お前のからだは人間を超えようとしている。わかるだろう。声が太く変わり、髭が濃くなるだけではないのを。頭をかかえるその指は感じているだろう。お前の頭に生えかかっているその小さな鬼の角の芽を。(いや、実際に角があったという証明はできないのだが。特徴的だったのは肌の色や目の色や鼻筋や眼窩上隆起の形だったかもしれない。それはいまとなっては誰にもわからないのだ。)


 桃太郎はその後どのように暮らしたのだろう。老夫婦には報いたらしいが、自身の行く末について後世には詳らかに伝わってはいない。桃太郎の家系が陸続と続いているという話は聞かない。ひょっとしたら、桃太郎は独身のまま生涯を終えたのかもしれない。そしてそれこそが、自らの遺伝的系譜を絶やすという意味での桃太郎の真の鬼退治だったのかもしれない。


 あるいは、鬼たちの財宝とは、鬼たち自身だったのかもしれない。鬼たちの技術。鬼たちの文化。鬼たちの笑顔。鬼たちの知恵。鬼たちの心。鬼たちの民族性。鬼たちの個性。それらを桃太郎は敵として悪鬼としてではなく、宝物として持ち帰ることに成功したのかもしれない。人の未来をより豊かにする古くて新しい種を持たらして、闇に取り巻かれた鬼のイメージを払拭したのかもしれない。だとすれば、それもまた、鬼退治である。桃太郎は自らの出生の秘密を解き明かし、その知識を武器として、人の社会を実り豊かなものに変えた。そうだとすれば、なんと見事な鬼退治であったことだろう。