意識

 自己意識、つまり、今自分は何を感じどう考え何をしようとしているということを自分自身に確認しているような、あるいは言い聞かせているような状態、というのは、連続的なものではないようだ。
 忘我とか没我とか、熱中状態とかフロー状態とか没頭中とか、そういう事態にあっては自己意識はしていない。というか、そんなことを意識しているうちはそういう状態であるとは言えない。

 自分以外の人が意識をもっているかどうかを確認するには、たとえば、ぼーっとしているような人の目の前に手をかざして振ってみる。それに気付いて瞬きしたり声を出したり質問したりしてくれば、その人に意識があると認める。逆に言えば、その人が実際に自己意識を持っているかどうかに関わらず、そうした反応を示せば他人からは意識を持っているように見えるし、当人が「意識している」と発言しているなら、そうと認めることしかできない。それ以上の確認はできない。ほんとうはその意識があるかどうかには関わらず。

 では、たとえばなにかに熱中しているとき、意識は「ない」のか。
 ないといえばない。
 体が動き、計算さえもし、言葉を発し、さまざまな行為をすることにおいて、意識は必須ではないということだ。

 とすれば、かならずしも意識が体を動かしているとはいえない。
 いっそ、動いている体が意識を生み出しているのだと考えてもいいわけだ。
 私の精神は、私の肉体の産物。
 まさに、健全な精神は健全な肉体に宿る、というわけだ。