即非の論理?

 鈴木大拙の「即非の論理」というものがあるそうな。
 「Aは非Aであり、それによってまさにAである」という金剛経に通底する思想だとか。

 ふうん。

 Aにたとえば数字の0を入れて「0は非0であり、それによってまさに0である」というと数学の論理記号を使って「 0 = ¬0 ⇒ 0 = 0」と書いてしまうと「そんなばかな」と感じる。
 「変なの」と思って、ちょっと検索してみた。
 ヒットするところをいくつか読んでみたらいくつか解釈があるらしい。

名前についての解釈

  ここにバナナが一本あるとする。
  そのバナナを指して、「これはバナナです」と言える。
  ではそれがバナナなら、これはなにかと別のバナナを考える。
  「それは別のバナナです」と言える。
  この場合、最初のバナナは「そのバナナ」であって「このバナナ」ではない。
  そう言えるからこそ、最初のバナナはその「バナナ」なのだね、という解釈。

  類の名前でその要素を呼ぶから混乱する。
  でも、固有名詞とか人名にしたって、そっくりな偽物や同姓同名を持ち出せば同じことで、厳密にはこの種の混乱からは逃げられない、ということか。

境界の曖昧性という解釈

  やはりバナナを例として。
  「これはバナナです」という。
  それに対して、「ではそのどこからどこまでがそのバナナなのか」と問うてみる。
  バナナの輪郭というか表面を指して、「この黄色い皮がこのバナナの境界です。その表面と表面より内側全部がこのバナナです」と言ってみる。
  それに対して、「ではこの黄色い表面は変化しないか。その表面を行き交う物質やエネルギーのやりとりはないか」と言われると、もちろんある。バナナは植物だから細胞からできている。細胞が生きて活動していれば、厳密にはもちろん物質もエネルギーも変動する。分子レベルでどこからどこまでがバナナかと言われたらはっきりは言えなくなる。
  だからバナナはどこまでがバナナとは言えない。
  バナナと呼んではいても、厳密にはこのバナナを完全には定義できてはいない。
  バナナは、バナナではない。
  しかしバナナが「バナナでない」というためには、バナナという言葉それ自体は意味を持たないわけにはいかない。
  そしてバナナという言葉が意味を持つなら、このバナナこそその名前にふさわしい。
  だから、バナナはバナナである。そしてそう言えたのは、バナナがバナナではないからだ、という解釈。

 ふうん。結局、「言葉が指すもの」と「言葉によって指されるもの」との対応関係には、曖昧性がつきまとってしまい、その曖昧性は完全には払いきれない、というのがこの論理のわかりにくさの理由なのかな?