進化の証拠

 証拠の妥当性が進化論を支持する理由の3つめだと言った。
 これには3つを挙げたい。
 ひとつには地球史的な考古学的遺物つまり化石の順序性。
 ふたつには現存するすべての生物、これまでに滅亡したすべての生物における遺伝子の共通性。
 みっつめに生物の差異に対応するDNAの差異の対応性だ。

 証拠の妥当性のひとつめは、化石だ。

 化石とは、地層にうもれた生物個体の有機物が年月を経て鉱物質に置き換わって残ったものだ。埋もれた当時の生物個体の骨格や繊維質、場合によっては毛や羽毛などの物理的な特徴を保存している。このような化石が地層の中に見つかる。
 地層をさかのぼると、生物の多様性が時間とともに変遷した道程を(ヘンゼルとグレーテルが森に残したパン屑をたどるように)たどることができる。人間の化石はごくごく新しい地層からしか出ない。(現世人類の化石はそれでも一万年ではなく数十万年前の地層から見つかる。)鳥の化石は比較的新しい地層からしか出ない。爬虫類の化石はもう少し古い地層からも出る。両生類の化石はさらに古い地層からも出る。魚類はさらに古い地層からも出るというように。化石による生物相の変化の単位は一万年どころではない。数千万年、一億年、十億年という単位だ。

 証拠の妥当性のふたつめとして遺伝子の共通性を挙げよう。

 少なくとも地球上の生物は、動物も植物も細菌もみなおなじようにDNAを遺伝子の実体としている。そしてもちろん人間もその例外ではない。すべての生物がDNAを同じルールに則って読み出し、同じようにアミノ酸を合成している。つまりすべての生物が遺伝情報を表現するのに共通の言語を用いているといえる。なぜか。生物が基本的に原初の唯一の祖先から多様化してきたと考えれば謎ではなくなる。

 証拠の妥当性のみっつめは生物の差異に対する遺伝子の差異の対応だ。

 進化を前提として考えてみる。このとき、遺伝子の変異が仮に同じ割合で過去から現在までやすみなく続いてきたと仮定すると、遺伝子の差異の大きさは進化の所要時間の長さに対応することになる。これは遺伝子時計といわれる考え方だ。遺伝子の差が時間の差に対応付けられるということである。検証するには、化石による年代推定と現存する類似の生物種のDNAの隔たりを突き合わせればよい。これまでのところ、遺伝子時計の考えは否定されるには至っていないようだ。したがって弱い背理法により、正しいと考えることは(厳密に証明されるわけではないが)少なくとも理にかなっている。

 こうしたことから「人間は神によって一万年前に作られた」と考えるよりもずっと、「進化によって数十億年をかけて原初的な生物(あるいは無生物)からすべての生命が作られ、人間もごく最近になってその多様化の産物として生まれた」と考えるほうが合理的だと私には思われる。進化を否定するには分子生物学や地質学、古生物学、年代測定学とその背景にある化学や物理学についての整合性のある証拠を否定あるいは再解釈する必要があり、それは容易ではないだろう。それに対して「人間が神によって一万年前に作られた」と考えるべき理由は何か。それが「聖書にそう書いてあるから」だとしたら、「神聖さ」よりも合理性を尊重する限り、考慮するには不十分すぎる理由だろう。

 もっとも、「神による創造」に対して、なぜそれが合理的ではないのか、進化論はどうしてより合理的だといえるのかについて調べたり考えたりするのは、いい頭の体操になる。その意味では「神による創造」説はなかなかの反面教師かもしれないな。