I.Asimov 読了

 ペーパーバック「I.ASIMOV A MEMOIR」を読み終えた。

 アシモフ3冊目の自伝。前の2冊は日本語版ではそれぞれが上下巻なので4冊だった。前の2冊は長過ぎたから2冊になったそうなので、これは2本目の自伝と言っていいのかもしれない。前の自伝「思い出はなおも若く」「喜びは今も胸に」は日本語版が早川書房から出版されてすぐに夢中で読んだものだが、こちらはまだ日本語版は未刊。Doubleday社から出版されたのは1994年だからもう14年になる。日本語版が出版されるとしたらたぶん早川書房からだろうが、訳出するつもりがないのだろうか。

 英語なので、もちろん日本語と比べれば読みにくいけれども、それにしては読みやすい。本文は560ページにもなる著作だが、166ものセクションに分かれている。セクションあたりの長さは、1ページから長いものでも10ページ程度だ。話題もだいたいは年代順になってはいるが、拾い読みしてもいい感じだ。実際、目次で興味のある話題については、いくつか通して読む前に拾い読みもした。それぞれに話題は異なるので、あるていど完結しているとともに、自伝なので連続性もある。そんなわけで、英語ではあっても読みやすい本ではないかと思う。日本語でたっぷりアシモフの著書には親しんでいるせいもあったかもしれない。

 概して楽しくおもしろく読めたのだが、終わりに近づくと次第に悲しくなった。年齢とともに現れてきた痛みと不自由さ。赤信号に行き会うまではつらくても立ち止まらずにいるというような虚勢。からだの不調と入退院。知人や友人がどんどん死んでいく。体力や気力も、どうしようもなく衰えていく。こういうところは読んでいて辛い。アシモフはユーモアを身上とし、死は無に帰ることであり、覚めない眠りに落ちることでしかないと言っている。死ぬこともそれが人生の紋様として決まってくれば悪くないと言う。しかしそれでも、体が衰弱するとやはり気分が晴れなかったり、心細くなることはあったようだ。妻ジャネットと娘ロビン(ちなみに息子デイビッドには、ほとんど言及されない)の将来を心配したり、賞や名声を「私だって人の子だ」とほしがったり、夢のなかで死んだ後、なぜか天国にいて「いいのか無神論者なのに」と思ったという話とか、痛ましいというか痛々しい気持ちになるところもあった。

 アシモフという人は、知的だとか理性的であることを誇りにしていて、実際それにふさわしい著作をいくつもいくつも書いては証明してみせている。けれども、いっぽうで恐がりで意気地なしで涙もろくて甘えん坊で、理性とは反対の面がかなり強く伝わってもくる。自分の書いた物語のなかのお気に入りにしても、アシモフはどれも感情的な作品を選んでいる。アシモフは、自分ではそちらのほうが本当の自分であるとわかっていながら、そうすることをためらってそのまわりでいつまでもうろうろしていたのかもしれない。厳しい父を恐れ、自分を懲らしめる母を恐れ、英語のできない両親にかわってキャンデーストアの店番を続けなくてはならなかった(あるいはそう思いこんでいた)幼少期。他人からバカにされたくないがゆえに他人を蔑み遠ざけながら、SF小説の周辺に群れる同類には限りない愛着を寄せた少年期。自らの限界となんでも一番ではないことを知って愕然とした青年期。完璧に立派な人でなくては満足しない(あるいはそんなふうに自分で自分を鞭打たせるような)美しい先妻を嫌った中年期。アシモフは、それでも人を恋い慕うがゆえに個人よりもむしろ人類を愛そうとしたのかもしれない。美人ではなくても心休まる妻ジャネットを愛してやまなかったのは、思いきり泣いてもいいんだよと言ってほしかったからかもしれない。

 私も一度、その傲慢で人を馬鹿にするような態度をとってみせるアシモフの文章に乗せられて、彼を嫌いだと思ったことがある。確かに、冷たい顔もある。自分が自分がと言い募る側面もある。しかし、アシモフは、そんな自分をわかっている。わかっていながらどうすることもできない不器用さを持っているようなのだ。「私のことを嫌いなんだろ?やっぱりね」とアシモフはつぶやく。「いいよもう。おまえなんか許してやらないから」という怒りと涙を、表に出さずに口を閉じる。愛されたいという思いを明け透けにすることを自らに許せないでいるアシモフが、私はどうにも愛おしい。