未来のお菓子はもっと和菓子と洋菓子の区別がなくなるのだろうか?

 最近のお菓子には抹茶とかきな粉とか胡麻とか餡を洋風のお菓子のバリエーションとして使うものがけっこうある。抹茶アイスクリームは私も好きだ。きな粉のグミとか、チョコレートコーティングした小豆などもある。ポッキーとか小枝チョコレートとかKitKatにも和風のものがいろいろ出ている。スーパーやコンビニの棚を改めて見渡せば、ずいぶんとあることに気づく。
 これは、和菓子のよさが再評価されているということでもある。自分の国の伝統的な文化が見直され、いいものはいいと認められてきているということなのかもしれない。ポップな書体でかわいい商品名を命名されたお菓子たち。そこには洋風の味もあれば和風の味もある。そこにあるのはもはや和菓子でもなく洋菓子でもなく、「お菓子」としかいえないようなお菓子である。20世紀を知る者としては、これが当世風21世紀のお菓子の姿なのかとも思う。

 むかしは、和菓子屋さんといってもそんなに高級品店という感じでもない店がたくさんあった。商店街に八百屋や魚屋と軒を並べるようにして和菓子屋も並んでいたような気がする。洋菓子店のほうはそんな並びと少し距離を置いて明るく清潔な店構えでつんとすましていたような風情があった。和菓子は和菓子、洋菓子は洋菓子で素材や味付けがもっとくっきりと分かれていた。店の雰囲気のせいか、どうも和菓子は時代がかっていてやぼったくて年寄り臭いイメージがつきまとっていたように思う。

 人の手でじかに練られ捏ねられ形作られるお菓子は高い人件費をかけて作られ、専門店にしか並ばない高級品なのだ。それでなくては大量生産の品に太刀打ちできず、小さな店は高級化するか、さもなくば店を畳まざるを得なくなってしまったのかもしれない。スーパーやコンビニに並ぶお菓子は、大量生産の機械化された流れ作業の中で成形され、自動的に包装されて大量に出荷され大量に消費される。それらは、比較的安い値段で買える日用品なのだ。そんな大量生産のお菓子たちは、見ようによっては冷たい無機的な印象を受ける包装で粧い、売り子の姿とは無縁の陳列棚にずらりと、そしてひっそりと並んでいる。無人の売り場で、プラスチックや金属箔に包まれたお菓子たち。整然と並ぶその様子には、どことなく生気のなさすら感じられる。そんなことを考えていると、私は少し背筋が寒くなるような気がした。いや、冬だから単に寒かっただけかもしれないのだが。

 ともあれ、人の手をかけた商品が高級品として扱われるのは、もしそれが人が大切に扱われているのだと解釈していいものなら、まんざら悪いことでもない。そうした流れは興味深いし、多様化するさまを眺めるのはおもしろい。この高級品と日用品への二極化傾向は今後ももっと進むのではないか。和菓子の一般化というかお菓子への浸透も、さらに進むだろう。同じ生産ラインで作れるものは味付けが和風だろうと洋風だろうと同じラインで作ったほうが安上がりだ。味のバリエーションが広がるのは商品の幅を広げると歓迎されるかもしれない。もしそんな傾向がそのままつづけば将来のお菓子の姿はどんなことになるだろう。もっと奇妙で楽しい世界が繰り広げられることだろうか。チューブ入りの羊羹とか、黒砂糖のガムとか、チョコレートを餡に見立てた葛饅頭なども売られるようになるかもしれないな。