「「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 (シリーズ・子どもたちの未来のために)」

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 (シリーズ・子どもたちの未来のために)

「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」 (シリーズ・子どもたちの未来のために)


 これは、素晴らしい悪夢だ。


 生々しく語られるベトナム戦争の体験。
 PTSDに苦しみながらホームレスとして暮らしていた男が、ある小学校で子供たちに初めてその体験を語ったとき、いくつもの質問の後でひとりの少女によって発せられた質問が、本書のタイトルだ。凡庸かもしれないが、ストレートで強力なタイトルだ。


 戦争について話しながらも自分自身の行動を語ることを避け、その質問を予期し(あるいはおびえ)、ついにその質問が来たときの彼のおののき。葛藤の末に口にした殺人者であることの告白、「YES」。そんな彼を、質問した少女はそばに寄り添い、「かわいそうなネルソンさん」と声をかけて抱きしめてくれる。思いがけない受容。それが、彼を決定的に変えたのだろう。


 彼はゲットーと呼ばれるニューヨークの貧しい地区で生まれた。暴力を手段として生きることを学び、黒人として差別される悲しみをなめながら育った。十代の頃、ドーナツとコーヒーに誘われて海兵隊に志願した。軍隊では、効率的かつ効果的な殺人方法と、命令によって動き、考えることなく行動することを訓練された。沖縄基地での放蕩すらも、国費を注ぎこんだ訓練で磨かれた凶暴性の発露と賞賛されたのか、とがめられることはなかった。沖縄を経て、彼を含む海兵隊員はベトナムの最前線に送られる。
 そこは緑の地獄だった。戦場はジャングル。そして彼はその地獄の鬼のひとりだった。殺人は日常。人数は数知れない。群がる蝿やうじには嫌悪を感じても、死体自体にはなんとも感じない。ただ、あの死体特有の匂いだけは慣れることができなかった、という。映画では、こういう感覚はなかなか描ききれないだろうと思わせる。しかも、夜になれば、物量を誇る米軍の天下は終わる。夜は地の利を得たベトコンの天下だ。米兵は日々、戦々恐々の夜を過ごすのだ。


 彼の場合は、あるとき塹壕ベトナム人の女性が出産する場に出くわし、赤ん坊の誕生を見て、戦いの相手もまた人間だったことに気づいた。また、最後に殺した若いベトナム男性の発した英語の質問を心に留めた。そして、それ以来、できるだけ殺さず、殺されないようにすることにし、期限前に除隊を申し出たという。こんな体験をした米兵はめったにいないに違いない。多くはそんな気づきもなく、帰還しただろう。彼の場合は、まだ救いがあったと言えるのかもしれない。


 戦時下だった。命令だった。それを除けば、大量殺人の体験には間違いない。だが、途中でそれに気づいてしまった男の語りであるということが、それを聞く私にとっても救いとなっていたように思う。


 こうした本は、得がたい代理経験をさせてくれる。
 人を殺すということ、その感触。暴力への脅威と興奮。チームとして行動する際の自己喪失感。戦いの中で野生化する感覚。非日常である戦争の現場を、錯覚であるかもしれないが、スリガラス越しにであってもわからせてくれるようだ。


 戦争は、少なくともその現場は、凄惨なものだ。海兵隊の大男だって、戦後何年も悪夢にうなされるようなしろものだ。人間は、手を変え、品を変え、こんなことをいつの世まで引きずりつづけるのか。
 多くの人が、その吐き気を催すような感覚を実感するか、少なくとも想像できるようになるまでは、止みがたいものなのだろうか。