ロボットに人権?

 スラッシュドットジャパンの記事「コミュニケーション機能を持つロボットに対し法的権利は付与されるべきか」を読んだ。ロボットに人権というのは、豚に真珠とか猫に小判とかいうことわざと同じようなものだろうか? 興味深い話題だが、議論は止んでしまっているようだ。

 そういうわけでここで自分の意見を述べてみる。



 人権は、意思に反する強制を受けないことを(ある範囲内で)社会が認めることで生じるものだ。だから、人権は、それを認めるだけの余裕のある社会にしか生まれない。それに、人権は、人権を望む意思を有する当事者が存在しなければ生まれない。逆に、その2つの条件が満たされるならば、ロボットにも人権が認められ、したがってそのとき、ロボットにも人権は付与されるべきとされることだろう。



 笑ったり話したりするという意味でだけ「人間らしい」ロボットが実現しても、彼らに人権が与えられることはない。彼ら自身が人権を求める意思を持っていることが必要だ。いいかえれば、ロボットは泣いたり怒ったりもする必要がある。そして人間の社会にも、ロボットを対等な「人間」として受け入れるだけの余裕がなければ実現しない。ない袖は振れないからだ。しかし、仮にその両者が現実のものとなるとしても、ロボットが人権を得るまでには社会的な摩擦が避けられないだろう。しかし、その2つが実現するならば、早晩ロボットにも人権が認められるだろう。そう考える理由は、人間の歴史にある。ふりかえってみよう。



 かつては、ロボットどころか人間に対しても人権を認めていてはやっていけない社会が大勢を占めていた。余裕のない社会では、罪人や戦争に敗れた国の民の人権を認めて養うことは土台無理な相談だった。したがって、当時の社会は、罪人や敗戦国民をすぐに追放したり死刑に処した。あるいは奴隷にした。当事者の意思に反していることは承知で、人身売買や奴隷を制度として認めた。それは「しかたなかった」のであり、「理にかなった」ことだとされたのだ。

 15世紀から18世紀にかけて、絶対王政の下で重商主義が推進されると、商品経済が発達した。奴隷にも、わずかな食料や衣服を与えて働かせるより、わずかな金銭を与えて自己調達させるようになった。同時に、奴隷は大衆消費者として、商人にとって(したがって、商人を無視できない政治家にとっても)無視できない存在に育つ可能性が生まれた。

 さらに15世紀には印刷技術が発達した。17世紀には郵便と新聞が普及し、19世紀には通信技術が発展した。奴隷に対する過酷な扱いに対するときおりのささやかな罪悪感はかならずしもその場限りのものでなくなり、共感を得られる小さな声は、社会的にますます大きな声に拡大されるようになった。奴隷の苦渋への共感が平然と述べられるようになった。その自由への意思を尊重する思想を抑圧する必要もまたうすれた。

 18世紀から19世紀にかけて、動力機関が大々的に利用できるようになると、農奴は工員となった。奴隷の必要性は決定的に低下した。(一方では、奴隷貿易もまた拡大し、消費者になれない奴隷も多数開発される状況が続いてもいた。)

 やがて、19世紀に至って、アメリカ合衆国限定ではあっても、奴隷制度は公式に否定された。奴隷制という必要悪は、単なる悪になった。偏見は残ったが、人権の対象は拡大した。



 社会はロボットの人権を認めるほどの余裕を持つべきだろうか。然り。社会は時間的にも空間的にも最大限に余裕を持つべきだからだ。

 ロボットは、自分の意思を持つべきだろうか。然り。社会がそれを必要とするだろうからだ。これについては少し補足しよう。



 問題なのは「べきか」ではなく、それが「できるか」だ。なによりも我々の社会は生き延びなければならない。しかも、可能な限り豊かな状態を持続しながらだ。そのためには科学技術を最大限に利用しなくてはならない。ロボットもまた、その可能性を最大化することが必要だ。ますます増える人口を効率的に養う必要がますます切実になるにつれて、また社会が地球規模から太陽系規模ないしそれ以上に拡大するにつれて、ロボットが人間の意思を逐一必要としていては追いつかなくなる局面は必ず発生する。制御するべき情報は多すぎ、宇宙は(太陽系でさえ)広すぎるからだ。そうなればロボットにもある種の「意思」を持たせることが必要になってくるだろう。



 今後、認識や判断や常識や感情についての理解はますます深まり、ロボットはますます人間に近づくだろう。その一方で、人工臓器や外部記憶やネットワークで拡張された他者(人間かロボットかを問わず)との結合は質・量ともにますます拡大し、人間はますますロボットに近づいていくだろう。やがては人間とロボットの境界はあいまいなものになるかもしれない。



 だから問題は、我々にそれを受け入れる度量と、英知と、そして残された時間が、十分にあるかどうかなのだ。