こころのフォーカス
考えごとをしていると、見れども見えず、聞けども聞こえずという境地になってしまっていることがある。こんなとき、こころのモニター画面には、目からの映像や耳からの音声は実効的には映し出されていないわけだ。それではそのとき、こころのモニター画面にはなにが映っているのかと考えると、考えごとをしているときの考えごとのイメージが見えて聞こえているのだろう。読書に熱中しているときというのも、その読書内容(本のなかみ)がこころのモニター画面に鮮明に映し出されている状態なのではないだろうか。集中できなくなるとラジオが正しくチューニングされていないときのように他のチャンネルや周波数の情報や雑音が混じってくる。
実際のこころのモニター画面というのはどういう構造になっているものなのだろう。それは、コンピュータのデスクトップのイメージに近かったりするのだろうか。たとえばいくつも並行して考えていることがらがあるとしても、そのひとつひとつはデスクトップの別々のウインドウに対応していたり、最小化されてタスクバーに入っていたりするのだろうか。そして「意識」されるのはやはりフォーカスのあたっているウインドウだけなのだろうか。フォーカスを次々に切り替えていくことができるように、意識もことがらのあいだを次々に切り替えていくことはできる。しかしフォーカスがあたっているウインドウは、つねに同時に考えていることがらのうちのどれかひとつだけ、というように。
デスクトップのウインドウに近いモデルとして、テレビのチャンネルを切り替えるというモデルでもいい。この場合も次々にチャンネルを切り替えることはできるが、ある瞬間に映し出されているのは特定のひとつのチャンネルだけだ。
そういう見方からすると、おもしろいのはテレビのリモコンによってテレビ画面に映し出されるテレビ番組表だ。各チャンネルの現在や過去、未来についての一覧が画面に映し出される。テレビ番組表の画面のなかにもフォーカスのあたっている部分があって、あちこちのチャンネルにその番組表内のフォーカスを移動させることができる。そして気に入った番組があれば実際にその番組にチャンネルを切り替えて、その番組を画面に映し出すことができる。自意識(自分についての意識)というのは、このテレビ番組表のようなものなのかもしれないな。