書店のときめき

 お昼にピザが食べたくなったが近くにいい店を知らない。そこで池袋まで出かけることにした。その帰りにジュンク堂池袋本店に寄る。ジュンク堂書店は池袋に出かけたときのいつものコースなのである。
 図書館にはない気分の高揚が大型の新刊書店にはある。書店ではその多くが新刊書であるという意識のせいだろうか。お金を出せば所有もできるという誘惑のためか。それとも、明るい照明のせいか。新しい本ゆえの紙の白さのせいだろうか。沈黙の重さを払う音楽の効果だろうか。従業員の統一されたエプロンときびきびとした立ち居振る舞いのせいか。本棚の高さや通路の比率のせいか。あるいは視線や動線を考慮した陳列の演出技法に差があるのか。
 図書館は新刊書店よりも静かで落ち着きがある。心のはやりもそれほどにはならない。ときおり響く幼い子供たちの声も図書館の壁に吸収されてしまう。よどむわけではないが、空気がどことなく沈んでいる。枯れた感じがする。ジャングルの猛々しさと生々しさが削ぎ落とされて、博物館のガラス越しの陽光を浴びてたたずむ剥製が、そのページを開くときだけ動き出す。そんな感じだ。
 いずれにせよ、新刊書店には心がはやる。自動ドアのガラスが静かな音を立てて開く瞬間から瞳孔が少しばかり大きくなるような気がする。気分だけは獲物を狙うネコ科の動物のそれがのりうつったようだ。
 妻とふたりで出かけるとき、たいていは手をつないで一緒に行動するのだが、書店と図書館ではそうでない。趣味の傾向がずれているせいもあり、分かれて好きに見て回るほうがお互い満足度が高く、気も楽なのだ。店に入るとエスカレーターで分かれるときに手を触れ合わせてハイタッチ。笑顔での別れだ。なにかあれば携帯電話のメールを送りあうことにしているので心配はない。(中には店内の電波状況の悪い店もあるが、そういう店は自然と敬遠することになる。)
 「都市の空気は自由にする」という中世ドイツのことわざがある。封建領主の支配下にある農奴が、都市や修道院で1年と1日を逃げ越せば、晴れて自由の身分になれたということを伝えるものだ。書店で私はそんな気分を味わう。「図書の空気は自由の味」とでもいおうか。明るい照明を浴びて輝く本の表紙や背表紙を眺めるとき、そのいくつかを手に取り、衣擦れにも似た音を立ててその白いページをめくるとき、そこに記された文字や挿画からあふれるイメージの奔流を感じるとき、私の心はそんな農奴にも似て解き放たれるような清々しさを感じ、ときめく。
 書籍の森をさまよい、本の林を抜け、文字の河をたどって、あちこちでめぼしい本を拾い上げるのは、色鮮やかな蝶を追い、螺鈿の輝く貝殻を拾うのに似ている。あるいは赤や黄色や紫の果実をつまんで口に入れ、薄い皮膜を歯で破ってあふれる果汁を味わいながら、その枝を手折って持ち帰ることに似ている。そのひらひらと舞う姿に見ほれ、波の音に耳をすまし、甘酸っぱい果肉を吸うのだ。これはという本を抱えながら書物の海を回遊すれば、時間はすぐに経過する。ついには足の疲れが切り上げ時を教える。だがそれでもまだ興奮の醒めやらない心は、なおもあたりを物色しようとする色気を抑えきれない。収穫があればその喜びと、後ろ髪を引かれる思いとで胸をふくらませてエスカレーターを降りる。支払いの際の書物という商品のやりとりと、それにともなう売り上げと来店への感謝の声が狩りの終わりを告げる。妻と獲物を見せあって、ふたたび手を触れ合わせる。帰路につくのだ。
 「大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買い物袋」という俵万智のちょっと広告めいた短歌があった。書店を出るとき、何冊も本を買っていたりするときは、そんな気分だ。本は硬くて、何冊もになればかなり重くもなる。しかし、それもそれほどの苦ではない。「重ければいよいよ豊かなる気分ジュンク堂書店の緑の袋」という具合である。