「アシモフの二つの顔」を読んだ

です・ます調で書いたら「なんで?」と言われたので、だ・である調で書き直してみます。*1

アシモフの二つの顔」というのは石和義之氏という方が書かれた評論である。主題は1992年に亡くなったSF作家のアイザック・アシモフ(Isaac Asimov)。タイトルはきっと、それ自体がアシモフのロボットSFへのオマージュでもあったホーガン(James Patrick Hogan)のSF「未来の二つの顔 The Two Faces of Tomorrow」を踏まえたものだろう。この評論は早川書房のSF評論新人賞で優秀賞を受賞した評論だ。SFマガジン早川書房)の2009年6月号に載っている。

アシモフの二つの顔」は、私が勝手に期待した方向とは少し違っていた。あるいは食い足りなかったといってもいいのかもしれない。タイトルから勝手に、アシモフの個人としての二つの側面を作品(それもSF作品だけではなくアシモフが残した多方面に渡るフィクションもノンフィクションも含めた全体)によって浮き彫りにするような評論を期待していたからである。「アシモフの二つの顔」では、アシモフの作品としてはほとんどSF小説ばかりが取り上げられていた。それもファウンデーションものとロボットものだ。どちらもアシモフの代表的なSFシリーズである。ライフワークといってもいいものだろう。だから、納得のいかないものではない。紙数の制約もあるわけだから、むしろ当然とも言えるかもしれない。それから「夜来たる Nightfall」。これも演繹・外挿という大鉈を振りかざすアイディア主体の物語である。

 でもアシモフ自身が気に入っていた自作の小説は、「停滞空間 The Ugly Little Boy」とか「最後の質問 The Last Question」とか「二百周年を迎えた男 The Bicentennial Man」のような、どちらかといえばメロドラマといってもいいような物語だったという。私が読みたかったのは、むしろアシモフ個人のそうしたメロドラマチックな傾向や、彼自身があちこちに書き残している日常生活の断片から、多種多様な出版物(大部分はSFではなくノンフィクション)が奔流のように生み出された理由や、そこに描き出される情景や景観の由来を解きほぐしてくれるのかということだった。20世紀のニューヨークで育った商店主の息子がなぜ、いかにして20世紀の三大SF作家のひとり(他の二人はクラーク Arthur Charles Clarke とハインライン Robert Anson Heinlein)と呼ばれる作家となり、銀河帝国やそこで活躍するロボットの壮大な物語を生み出さずにはいなかったのか。そうした謎を解明してくれるような評論が読みたい。そしてアシモフの内面をなぞりながら、彼が生み出した膨大な作品を縦横に跳梁してみたい。アシモフに耽溺したい。私の望みはそのあたりにあった。

 そう望むのは、わたしにとってアシモフを読むということが世界を理解するという言葉とほとんど同義に近い時期があったからではないかと思う。そうした私自身の個人的な経験のなかの一時代への郷愁に駆られるのかもしれない。私は、アシモフを愛することで、宇宙との幸福な一体感を感じ、人類への強い帰属意識を得ているのだろう。そうすることで、私は、私自身に執着しているのかもしれない。作家はその書いたものによって読者を映す鏡である。アシモフを読むとき、私は、アシモフという名のたわんだ鏡に映った自分を眺めるのが好きな、ちっぽけなナルシシストを演じているようだ。そしてそれは、快感なのだ。

*1:たとえば英語に訳す場合、どうやってそのニュアンスの違いを訳し分けることができるんだろう?