因幡の白うさぎ

 妻が古事記にある因幡の白うさぎの話を自分なりに翻訳してみようと思っていると言った。
 どんな話だったかと読み直してみた。
 こんな話である。たぶん。

 オオナムジノミコトという神がいた。八十人もの兄がいる兄弟の末っ子である。このオオナムジはオオクニヌシノミコトの別名である。あるとき、兄たちが総出で旅に出た。魅力的なことで有名なヤガミヒメに求婚するためであった。おまえも来い、おれたちの荷物も持て、と兄たちの荷物を持たされたオオナムジは兄に少し遅れて旅をしていた。そんな旅の途中、海辺を歩いていたオオナムジは山から悲痛な鳴き声が聞こえてくるのを耳にし、その声の主を見つけるために山に登った。声の主はうさぎだった。しかし毛は抜けおち、乾いた血でまみれた体表はひび割れて細かく裂け、真皮からは体液が滲んでいる。正視に耐えない姿だった。疲れたうめき声を上げつづけるうさぎに、オオナムジが問うた。「いったい、どうしたのだ。」うさぎはときどきうめき声を挟みながら応えた。「大怪我をしたんです。痛くて苦しくて困っていたら、あなたのような格好をした大勢の神様たちが手当の方法を教えてくれました。」「兄たちだな、きっと。」「それで試しているところなんですが、ちっとも直らなくて。それどころか、ますます痛んで、ひりひりして、もうたまりません。」「どんな治しかたを習ったんだ。」「海水で体を洗って、風の強い山の上で体を乾かすように言われたのでそうしました。」「うわ。それはひどい。そんなことをしたら海水はしみるし、傷口は塞がるどころかひろがってしまう。」「え?あなたのお兄さまたちは嘘をついたんですか。」「申し訳ない。代わりに謝るよ。その体は真水でよく洗いなさい。そういえば近くに蒲の穂が生えていた。その穂を敷きつめてその上に転がりなさい。それできっとよくなるから。」「ほんとですか。」「ほら手伝うから。」「ありがとう。」うさぎを抱えて山を下りながら、オオナムジは聞いた。「それにしてもそもそもどうしてそんなに大怪我をしたんだね。」すると急にうさぎは痛がって目を閉じ、歯をくいしばって痛みに耐える様子だった。「痛むか。」オオナムジが尋ねる声に、うさぎはしばらく答えなかったが、黙って体を支えてくれているオオナムジをじっと見つめると、やがて心を決めたように語り出した。「実は、ワニを怒らせてしまって。」「ワニって?」「このあたりの海に棲んでいる、とにかく大きくてこわもての生き物です。そいつらを怒らせてしまったんですから、ひどい目にあっても当然です。」「どうしてまた。」「私がバカだったんですね。私は海の向こうの隠岐の島で生まれ育ちました。でもずっとこちらに来てみたくてしかたありませんでした。あこがれだったんです。どうしたら海を渡れるだろうとそればかり考えてきました。あるとき、ワニと知りあいまして、そのときふと、ワニが橋のように島からこちらの岸まで並んでくれたら、その上を跳びわたってこれると思いついたんです。私くらいの体重ならワニにとっては大した重さじゃない。私はうれしかった。これで島から出られるってね。」うさぎはオオナムジに真水で体を洗ってもらいながら話し続けた。「それから私はまた考えました。どうしよう。ワニは、橋のように一列に並んでくれなくては困ります。どうしたら並んでくれるだろう。正直に話しても、きっとダメです。利用されるだけではワニだっておもしろくないでしょう。なんの得にもならないのに私のために大勢のワニがわざわざ協力してくれるとは思えませんでした。それで、ワニたちの競争心と自尊心に訴えることにしたんです。私は知りあったワニに言いました。私たちうさぎは、繁殖力が強い。家族も大きければ親類縁者まで数えればすごい数になる。君たちワニはどうかな。かわいそうに絶滅に瀕しているんじゃないのか。こんなふうに言えば、ワニは競争心を煽られます。案の定、そんなことはないとムキになって言いはりました。だったら君たちの仲間はいったいどのくらいいるんだい、と私はさらに聞きました。もちろんワニは自分たちの正確な数なんて知りません。負けたくないだけなんですから。それでは、と私は提案しました。どうだろう、一度実際に数えてみようか。この隠岐の島から向こう岸の陸地まで、一直線に並んでみてくれないか。そうすれば、私がその上を跳びはねながら正しい数を数えてもいいよ。ワニ一族の正確な数を数えよう。そうすればうさぎの数と比べることができる。どっちがどれだけ多いかすぐにわかるはずだよね。うさぎよりも多いとは、ちょっと思えないけどね、と付け加えると、ワニは興奮して、すぐにでもみんなを集めるからさっそく数えてくれと言いました。こうして、私はワニたちに隠岐の島からこちらの岸まで渡りきれるだけの橋を作ってもらうことができました。それはみごとなものでした。これはひょっとするとうさぎの数といい勝負かもしれないと言うと、ワニたちもまんざらでもなさそうでした。こうして、私はワニたちを数えながら、隠岐の島からこちらまで、念願通り渡りきることができるはずでした。私は有頂天でした。自分の思いつきがこんなにうまくいくなんて信じられませんでした。そのせいでしょうか。もう陸まであとわずかというところでどうしようもなく笑いがこみあげてきて、止まらなくなりました。自分の頭のよさをついついワニたちに吹聴したくなってたまらなくなりました。笑いながら、ワニたちの行動は、私の思惑通りだと叫びました。私のために、知らずに協力してくれてご苦労さまだなと、私は当惑するワニたちを笑いました。それは、ワニたちを怒らせるには十分でした。私の体は、ワニたちの怒りに翻弄されてぼろぼろになりました。私がバカだったんです。」オオナムジは蒲の穂の束を抱えてうさぎのための寝床を作って言った。「ほら、蒲の穂だ。さあこの上に転がって体を休めなさい。」うさぎは蒲の穂の柔らかくて優しい肌触りの寝床に横たわると、潤んだ目を真っ赤にはらしながら感謝しました。「ああ、いい気持ちだ。助かりました。オオナムジさま。私は昔、あなたがたがいま会いにいこうとされているヤガミヒメ様のことを聞いたことがあります。ヒメ様はきっと、ほかのお兄さまたちではなくオオナムジさまをお選びになることでしょう。」「それでは、気をつけてな。」オオナムジは再び旅路に着いた。オオナムジは何度か振り返ったが、うさぎはいつまでもオオナムジのほうを感謝のまなざしで見つめ続けていた。