王権神授説は誰が言い出しっぺか?

 王様ゲームでは、たとえ理不尽な命令でも、王様の命令は絶対だ。それが現実の政治の場で当然とされていたとしたら、ただごとではない。17世紀には、それがあった。それが絶対王政だ。そしてその絶対王政を正当化した思想が王権神授説だ。その主張は、国王の権力は神の思し召しであり、神の御心に逆らうべきでない以上、国王の命令にもしたがうべきなのだ、というものだ。ほんとうにそうなのかとか、証拠はあるのか、といった疑問には、実力をもって答えが示される。「嘘だと思うなら、国王に歯向かってみよ。返り討ちにされるぞ」というわけだ。したがって当時は誰もその権威を疑うことはできなかった。国王の権力が最高潮に達してなんでもありになったときの言説が王権神授説だったと言っていいのではないだろうか。

 現実には、王権神授説は国王の権威に対する後付けの説明にすぎない。国王が国内で絶対的な権力を持つことができるようになった理由は、商業にあった。16世紀の宗教改革によって、商業に従事して稼いでも宗教的になんらうしろめたいものではないとするプロテスタントの立場が認められると、17世紀のヨーロッパでは商業が盛んとなった。商人は大きな市場を望み、そのためには、移動するにも取引するにも、国内が強い国王のもとで統一されているほうが都合がよかった。かならずしもプロテスタントではなかった国王も、商人が潤い、そこから税を取り立てることで現金収入が得られることを望んだ。相対的に現金収入の乏しい地方貴族は没落した。地方貴族の忠誠を買うことができた国王との格差は拡大した。こうして、国王の権威は空前の上昇を見せることになった。

 王権神授説は、1576年にジャン・ボダンが『国家論』で述べたのが最初だとされる。
 ジャン・ボダンは16世紀フランスの法学者、政治哲学者。1536年に生まれ、1596年に死んだ。
 40歳で著した『国歌論』では王権神授説について述べた。それはユグノー戦争開始から14年が経ち、いまだ果てしなく続いていた時代。第4次ユグノー戦争がようやく収まった1573年のブローニュ勅令の年から3年後の1576年。数千人の新教徒が殺された1572年のサン・バルテルミの虐殺からは4年後のこと。
 44歳で著した『悪魔憑き』は魔女狩りのバイブルとされ、異端審問官として無実の人々を死に追いやった。
 ボダンは60歳で死んだ。死因はペストだった。彼の死後2年のち、ユグノー戦争は終結した。その年1598年に出されたナントの勅令はユグノーの権利を認め、ボダンの死から99年後の1685年にルイ14世がフォンテーヌブローの勅令で廃止するまで、フランスは安定した。

 ボダンの『国歌論』から109年後、1685年にはボシュエが『世界史叙説』で王権神授説を述べた。
 ジャック=ベニーニュ・ボシュエは17世紀フランスの北部モーの司教で神学者。1627年生まれ。1704年没。雄弁家として有名で「モーの鷹」の異名を持つ。43歳から54歳までの11年間、当時9歳から20歳だったルイ14世の息子ルイ(グラン・ドーファン)の宮廷説教師を勤めたこともある。
 このボシュエが、1685年の著書『世界史叙説』で「神は国王を使者としており、国王を通じて人びとを支配している。……国王の人格は神聖であり、彼にさからうことは神を冒涜することである」と王権神授説を展開した。

 ボシュエの『世界史叙説』の5年前、1680年にはイギリスでもロバート・フィルマーが『父権論』で「国王の絶対的支配権は人類の祖アダムの子どもに対する父権に由来する」と述べた。

 1576年の『国歌論』、1680年の『父権論』、1685年の『世界史叙説』。これらが王権神授説の隆盛に影響を及ぼすか、またはその反対に当時の風潮を映し出すかしていたのだろう。国王の権威はフランス国王ルイ14世の頃に最盛期を迎え、次第に衰退を始める。この衰退は国王がプロテスタントを迫害し、国外に逃亡するプロテスタントが増え、国王が商業的な恩恵を得にくくなったことが遠因とも言われている。有頂天になって国費を浪費した国王は、国民の反発を招き、やがて財力を付けた市民たちによって権力の座から引きずり降ろされることになる。

 驕る平家は久しからず、と言ったところだろうか。