「ハーバード白熱教室@東京大学」

録画してあったNHKの番組を観ました。
オバマは広島や長崎について謝罪するべきだろうか。そのときなんと言うべきだろうか」というサンデル教授の問いかけには、なにやら切実な印象を受けました。オバマ大統領から謝罪文の作成を頼まれてるのかなとか思ったり。

パキスタンと日本で同程度の自然災害が発生して助けを求められている場合、日本を優先的に助けると差別的なえこひいきになるか。」
この問いかけには次のような意見が出ました。
(1)「自分は日本で生まれ育ち、日本人に恩義があるから日本人に対して優先的に支援する道徳的義務がある。」
(2)「日本とパキスタンで区別するのは道徳的でない。日本とパキスタンで同等の支援が求められているなら同等の支援を行うべきだ。」

私なら、日本人が日本人を優先して支援するのは道徳的に許容されると考えます。パキスタン人がパキスタン人を優先的に支援するのも同様に道徳的に許容されるでしょう。

しかし、私にとって、その理由は日本人は日本人に恩義があるからではありません。日本人はほかの日本人を「自分と同じ」日本人だと考えるからです。だから場合によってはある日本人があるパキスタン人を優先的に助けるということもあってよいと思います。

すべての人がすべての人を等しく公平に扱える場合にはそうすることが望ましいです。日本人もパキスタン人も救えるなら救うべきです。でも、どちらかしか選べないような場合にはどちらかを選ばなくてはなりません。そうしないと共倒れになるような場合には、全滅を避けるほうが重要です。そうした極限的な場合には、公平でありながらも不平等な資源配分を行うべきです。

そのとき、どうやって公平でありながらも不平等な資源配分を行うのか。そこに自己または自己以上に愛する者を優先していいというルールを導入することが道徳的には妥当だと私は思います。個人に無限の愛を義務として課すことはできないでしょう。自己以上に愛する者をかぎりなく広くするためにどうすればいいかを考え続けることが正義だと私は思います。

「戦争責任のような道徳的責任は世代を超えて受け継がれるべきか。」
この問いかけには次のような意見が出ました。
(1)「責任は前の世代にあり、新しい世代には自らの選択の余地がないから責任もない。」
(2)「道徳的に償うべき相手が存在するかぎり責任は継続する。新しい世代には古い世代との連続性があるから責任も連続する。」

私は、これはアイデンティティーの問題だと思います。過去の世代が戦争責任を負うとして、自分はその過去の世代と同じ日本人なのか。これは、戦争に反対していた過去の同世代の人たちもやはり戦争責任を負うのかという問題と同じ種類の問題だと思います。たとえ自分自身の意思が含まれていなくても、自分はその責任を負うべき人たちと同じ種類の人間なのか。その答えを私たちは自分自身で選び取り、引き受けることができます。

だから、もし自分はあのとき間違いを犯した日本人と同じ日本人だと考えるなら、責任を負うべきです。それはたとえば、ジキル博士がハイド氏の犯した犯罪に対して責任を負うべきかどうかと同じでしょう。意識喪失により過失または故意の責任を問えないと被害者を含めた社会から認められるなら、責任は免れるかもしれませんが、そうでなければやはり責任は負うべきでしょう。最終的にその責任があるかないかを決めるのは、加害者でも被害者でもなく、加害者と被害者を含む社会(国際社会)の共通意識だと思います。