「脳はなぜ「心」を作ったのか」

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説

 秋葉原Laoxコンピュータ館内にある書籍売り場での立ち読み。
 ざっと眼を通しただけだが、刺激的な内容だ。


 心のなかにある「私」感覚はどのようにして生まれるのか。


 「私」は「私」だという感覚。ここにこうして生きている「私」という感覚。それを「クオリア」というそうだ。
 仮に、まったく同じ物質とその構成パターンで自分自身を完全にコピーできたとする。そのとき、「私」は何人いるのだろう。著者は、やはり、「私」はひとりだろうという。


 この本によれば、そうした「私」感覚は錯覚にすぎないという。
 意識や意志というのは、原因ではなく、結果あるいは副作用だというのだ。
 たとえば、コップを取ろうとして、手を伸ばす。すると、手が伸びる。これは一般的には、自由意志による行動だと解釈される。だが、この本の流儀で説明すると、これは手を伸ばすという行為が先で、その行為によって(ないし、その行為と並行して)「コップを取ろう」という意識が生まれているのだという。
 その証拠に、意志に対応する脳波に先行して手を伸ばすための腕の筋肉の電気信号が測定される、という実験の例が挙げられていて、異なる研究者による追試も行われ、再現性が確認されているという。(この実験自体は、著者の研究というわけではないが、何年も前に「日経サイエンス」で取り上げられていたような記憶がある。)


 そういえば、幻肢症という症状がある。事故で手足を失った人が、もはや存在しない手足の先に痒みや痛みを感じたりするというものだ。神経から脳に伝わった信号が手先の感覚を引き起こすのだとしたら、たとえ実際には手先が失われていても、同じ種類の信号さえ脳に伝わってくれば、やはりそれは手先の感覚として感じられるだろう。仮に、失った手の代わりに人工の義手を取り付けたとして、それが元の腕と同じインタフェースを持てば(同じ信号で同じように動き、同じ感覚信号を伝えてくれるなら)、脳はやはりその人工の義手の指先に手触りを感じることになるのだろう。


 たとえばなにかを触ってそのものの手触りを感じる場合、それは脳で認識されるはずなのに、その感覚は指先に感じる。これは、錯覚だ。それと同じように、意志だって錯覚なのだと著者はいう。


 この本では、意志について、意志を水源とした流れが合流して行動という川が流れるのではなく、川下で海へ流れ込む川の水を眺めているのが意志だ、というようなたとえがされている。
 意識だけなら、内観として受動的に自己の内面を観察しているという主張に驚きはない。自発的と感じる意志も、実はそうなのだ、という主張が新鮮だ。


 自由意志はある。だがそれは行動の原因のすべてではない。
 ほとんどの行動は無意識下に処理される。意識・意志のほとんどは行動の副作用だ。そして「一部の」意識・意志は、行動を変形させる「ことも」ある。
 そこに価値を認めることには何の障害もないが、それは本質ではなく、進化の途上で次第に現れるようになった電気化学的パターンの一種にすぎないのかもしれない。

 うすうすは感じていたことだったかもしれないが、はっきりと言葉にしてくれたこの本は、やはり印象的だ。


 私が好きな映画のひとつ「アンドリューNDR114*1」では、偶発的に自由意志を持ったロボット「アンドリュー」が人間にあこがれ、人間にも使われる人工臓器を発明し、みずからの姿や行動を人間に近づけ、ついに法廷で自分を人間と認めるよう要求する。映画では人間の女性と結婚し、永遠に活動し続けられる体さえ捨てて年老い、やがて、世界法廷が彼を人間と認めるという裁定を下す宣告を聞く前に息を引き取る。
 人間に近づいたロボット。そして臓器や体躯を人工的なものと交換し、健康と寿命を人工的に引き伸ばす人間。このように、たがいが相手に近づいたとき、どこで両者は出会うのか。
 ロボットと人間の境界とは何か。人間とは何か。魂とは何なのか。


 この映画の原作者でもあり、唯物論者であるはずのアイザック・アシモフでさえ、かつて、科学エッセイのなかで、自由意志についてかなり控えめな態度をとっていたことを思い出す。あえて自由意志とは何かについては突っ込まない、という感じだった。


 ところで、こうした進化の原動力(淘汰圧)は何だったのだろう。


 感情あるいは情動については、それがあるほうが生き残りに有利だという説明がある。強く激しく、行動を起こさせるエンジンとして働くというのだ。感情があれば、脊髄反射より適応的で、かつ、爆発的な瞬発力と堅固な強靭さを兼ね備えた行動がとれる。はっきりした理由がなく、論理的に決めかねるような状態でもすみやかに決定を行える。
 言語は、仲間内でのコミュニケーションを促進する。言語という抽象的なレベルで個人の知識や知恵をわかちあい、相互に強化しあうことができる。


 そして言語によって個人の内部状態を表現することができれば、危険を避け、享楽を分かちあうことが容易になり、生き残りや繁殖にも有利だろう。「痛い」と言えば、危険らしいと周りのものにも伝わる。「おいしい」と言えば、おそらく安全かつ栄養にもなりそうものがあるとわかる。


 生理的な欲求が満たされると、人間は誰かとつながりたい、役に立ちたいと思うものらしい。
 それはこうした感情や意識、そして意志を抱く存在が、より繁栄しやすいから繁栄しているのだと考えることもできそうだ。協力しあう者たちは、孤立している場合と比べて全体としての存在とその継続の可能性が高まるだろうから。


 意識の発生を促す淘汰圧は、感情と言語に由来するものだろうか。