「日本を継ぐ異邦人」

ゆうべから、寝る前の音読用の本を「日本を継ぐ異邦人」にした。

日本を継ぐ異邦人

日本を継ぐ異邦人

数年前に購入して読んだ。

ゆうべの音読は、まえがきのみ。

まえがきに登場するのは、京都で寺の住職を務める青い目の老僧。
老僧は、日本で22歳まで生まれ育った。父親の生国アメリカへ渡り、太平洋戦争(第二次世界大戦)中は日系人強制収容所に収容された。その後、病気療養のため生まれ育った横浜へ戻り、伝をたどって京都の住職になったという。

この老僧は、最近の京都の都市開発で伝統的な景観が変化していくことに批判的だ。京都タワーや、遷都1200年事業で建て替えられたJR京都駅などの現代風の巨大建築にはいい顔をしない。日本人は、伝統を無造作に捨てすぎているのではないかと言う。もっと伝統を大切にする方法があるのではと。日本人だけで伝統を維持できないとしても、もっと広く世界に門戸を開いて日本の伝統を維持することを、もっと認めてもいいのではないかと。

たぶん、この本の著者は、この老僧に仮託して自分の意見を言いたかったのではないかという気がする。だからまえがきにこの話を入れたのだろう。

音読してくれた妻は、外国人(アメリカ人)からそんなふうに批難されるいわれはないのではないかと不機嫌そうだった。

老僧は、見かけはドイツ系アメリカ人の父親に似て碧眼だ。(髪は得度して剃ってあるので金髪かどうかはわからない。)顔立ちも、欧米系。一見して外国人だとわかる。しかし、若い頃、日本人として収容所に入れられたというから、おそらくそのとき、自分は生粋のアメリカ人としては受け入れられないことを悟ったことだろう。もしかしたら、その疎外される痛みを、日本人としての自覚を高めることで耐えようとしたのかもしれない。自分は、アメリカにはない長い歴史と伝統のある国の人間なのだという矜持を持つことで慰めたのかもしれない。だがその祖国であるはずの日本に戦後戻ってみると、やはり外見の違いもあったろうし、日本人からもまた、よそ者扱いされることが多かったのではないか。そこで、自分がよりどころとしていた伝統を日本人が省みない態度や、伝統の維持は日本人の手でという雰囲気を感じると、悲しみを通り越して憤りを感じるのかもしれない。

時代のせいもあるのだろう。
21世紀の現代では、日本にも戦後すぐとくらべれば格段に多くの外国人がいる。
勢い、日本人の意識もそうした現実を受け入れる方向に変容してきている。
むかしと比べれば、排他的な感情もいくぶんなりとも薄まっているだろう。
たとえば、国技とされる相撲の横綱の座は、ここ数年、モンゴル出身の力士が守っている。ウクライナその他の出身の力士もいるらしい。
まだ大阪府の女性知事が土俵に上がることには難色を示すような相撲界でも、外国人に対する拒否反応――伝統を楯にとっての差別意識――は、むかしと比べればやはり沈静化しているといっていいのではないか。

そのぶん、より若い世代の外国人には、老僧のようなこだわりが薄いのではないだろうか。まえがきにも、別の外国人は、JR京都駅について好意的な感想を述べていることが紹介されている。

日本は、高齢化社会になってきた。
これも、外国人の増加を促していることだろう。
まだ、日本人といえば日本民族という考え方は、過半数を割っていないように思うが、そのうちそうでもなくなるだろうと思う。