「自由」についての補足

 NHK で放送してる「ハーバード白熱教室」の第10回「アリストテレスは死んでいない」をさっき観た。 Lecture20「奴隷制に正義あり?」まで観てて気付いた。自由についてどう考えてるのか http://d.hatena.ne.jp/KimuraShinichi/20100606/1275784866 では言い忘れてたなあって。ここで補足しとこか。

 自由についてはどうなんや? もしいちばんいい組み合わせを実現するために誰かが自由を侵されるんやったら、それでも正義て言えるんか? 正義のためやからって、人は自分の意思を曲げなあかんのか?

 ちがうやろ。正義を実現する「いちばんいい組み合わせ」て、そら何や? それを考えるときには、その人の自由な選択があらかじめ組み込まれてなあかんと思うねん。なんでって、そら、もしその人から自由な選択が奪われそうになったら、その人は抵抗するに決まってるからや。誰でも、もし強制が横行したら、嫌気が差したり怒ったりするやろ。やれ強制そら強制では、社会がうまくまわるはずあらへん。無理ぐりまわそとしても、摩擦が生まれるだけや。そらな、そんなやりかたしたって社会はそこそこやっていけるかもしれへん。ある程度まではや。ほんでもそれが最高の方法のはずがあるか? 喜んで取り組む作業のほうが、しぶしぶやらされる作業よりも効率が悪いなんてそんなん考えられるか? そやから、もし実際に社会が最高のパフォーマンスを実現する方法は、ゆうて考えるんやったらや。それには、あらかじめ強制には抵抗がつきものっちゅうことも考えに入れとかなあかんはずや。当人の意思の自由をまるっきり無視しときながら、それをいちばんいい組み合わせやとか正義やって言うのは、まるっきりおかしいと思わへんか?

 世界は有限やわな。そやから、何十億人もいる人類の全員が無限の自由をほしがったって、そら無理や。現実的な限界っちゅうもんがある。ほなら、どうしたかて一部の人の自由は制限される。諦めさせられる。一部というか、たぶん、実際にはほとんどの人が多かれ少なかれ制限されると思う。そう考えたらやで、宇宙っちゅうもんは、本質的に不正義なんやなあ。言いかえたら、正義なんて、経済とか技術、ひとことで言うたら時代によって、どこまでできるかが違てて当たり前っていうこっちゃ。正義ちゅうのは、その社会がその時代に、なんとか実現できるいちばんマシなありかたでしかない。そやから正義は時代によってその顔を変える。それは、限界はあっても、その限界を押し広げることはできるっていうことでもある。たとえば技術がどんどん発展するだけでも、自分がせんなんと信じることやら、したいて思うことを、もっとできるようになる人、つまり、もっと自由な人が増えるかもしれへん。いまよりもっと、誰にでもかんたんに手に入るように、自由は膨らんでいく。そうなったら、その社会はもっと豊かな正義を実現できたって言えるんちゃうかな。

 ぼくはこう思うねん。もちろん正義っちゅうのは、「ほしいからくれ」と叫んだらそれだけで恵んでもらえるもんやない。ひとりひとりが、工夫や努力や運をあるだけぜんぶ注ぎ込んで、みんなのために切り開くもんなんやと思うな。実際に実現するか、実現するとしてもそれがどれほどのもんか、それはわからへん。それでもぼくらは、正義をどんどん拡大していける。どんどん善うしていける。すくなくとも、そう信じてそのためにがんばることはできる。そういうものを、ぼくは正義と呼びたいと思う。ほなね。